映画から全体主義を読むー粧し込んだ若者達で大いに賑わう新宿土曜の夜に、モラヴィア小説『孤独な青年』を1970年に映画化したベルトルッチ監督『暗殺の森』を久々にみた。

映画から全体主義を読む

 

粧し込んだ若者達で大いに賑わう新宿土曜の夜に、モラヴィア小説『孤独な青年』を1970年に映画化したベルトルッチ監督『暗殺の森』を久々にみた。ただ残念なことに、'暗殺の森'という日本語題がピンと来ない。原題は、Il conformista (「同調者)である。同調者の意味とは何か?監督ベルトリッチは、'裏切者'のアイルランド的テーマに惹かれ続けていたことをスコットランド映画評論家に語っていることが大変面白い。映画評論家「なぜあなたはあなたが尊敬してきたゴダールをあんなやり方で殺してしまったのですか!」。ベルトリッチ監督「あれはゴダールじゃない。映画の中で殺されたのはパリの大学教授だよ」。『暗殺の森』は、反ファシズムの哲学教授?ゴダールの巨大な影響力から離れたベルトリッチ監督の思いー映画は'主義'とは関係がないのだーが反映されている。何度もみた映画だが、昨夜は、映画の中の「君はいつか自分の主義を捨てる日が来るだろうよ」という知識人の予言の言葉から、逆に、全体主義が(「公的なもの」の)'主義'とは関係がないことを私に初めて考えさせた。だからといって「暗殺の森」の全体主義はそれほど「私的なもの」の領域としては描かれてはいない。青年マルチェロと秘密組織との契約が成立するのは、娯楽音楽とプロパガンダ演説とが共存したような、ラジオ番組の制作スタジオのなかだったからだ。マルチェロは、ファシズムを支持するのでもなく支持しないのでもないかくも曖昧な領域から、大衆の中から、その内部に沿って現れてくるのであった。マンガニエーロ、ファシズム組織に取り囲まれどこにも逃げられなくなった小市民、マルチェロの揺れ続ける凡庸な魂は影の尾行者に隙間なく捕獲されることになる。そして自分の最後の拠り所であるアンナという存在を救うどころか裏切っていることすら分からないまま、他の道がないとばかり健全な感覚で歩み進んでいるという天に祈る安心感の内側で、全体主義の悪に心の中心から同調していくのであった