映画から、沖縄の意味を読むことができるのだろうか?― 「マイケル・コリンズ」(ジョーダン)、「麦の穂をゆらす風」(ローチ)

東京新聞のコラム二ストは'沖縄からの問い'を緊急に書くためには、どうしても大英帝国から独立したアイルランドの戦いを描いた映画に言及しなければならなかったようだ。しかし本当に、映画から、沖縄の意味を読むことができるのだろうか?二ール・ジョーダンとケン・ローチは、アイルランド共和主義の「草の根」的な大衆的自発運動がいかに、<組織化>によって腐敗してしまったのかという問題をかんがえた監督たちである。「マイケル・コリンズ」(ジョーダン)、「麦の穂をゆらす風」(ローチ)の共通点といえば、政治的独立後の内戦の暴力を描いたことだ。暴力は、言論で覆せない絶対権威に対して起きるものなのだ。将来歴史家が判断することになるだろうが、新・独立政府が<組織化>を通じて再び、(独立運動が否定した)絶対権威になったという可能性が否定できないのである。(だから今日のスコットランドナショナリスト達は、アイルランドの独立への大きな憧憬をもちながらも、暴力のリスクを伴う独立よりも寧ろ自立への道を歩んでいると読めるのだけれど。) <組織化>は同時に、<自発性の喪失>である。二ール・ジョーダンは、<組織化>の問題を、<自発性の喪失>の問題として、ナショナリズムの暴力に沿って考えようとした。 他方、ケン・ローチはそれをもっとファシズムの問題としてより普遍的に考えているといえよう。かれは三十年代スペイン市民戦争のときに反フランコ側の抵抗運動の間に起きた分裂の問題を映画化している