映画「暗殺の森」をいかに読むか?

もし主人公のマルチェロが戦後の法廷で裁かれるとしたら、それは何の罪だろうかと考える観客が多いだろう。私も時々考える。確かにこの知識人はファシズムと反ファシズムとの間で揺れ動いていた。だが転向そのものについては問われることはないはずだ。ヨーロッパにおいてただ問われるのは、かれの殺人共犯と、秘密組織に加入し戦争協力した行為についてではないか。監督ベルトリッチもそう考えていると思う。しかし「軽蔑」のゴダールの場合は、そもそも考えが変わること自体が(軽蔑を超えて)倫理的な問題を構成する。これがベルトリッチとの大きな差である。断絶がある。ところで、編集 (構成された映像)というのは、カメラをどこに置くか (アングル)、カメラをどう動かすか (パン)、光源をどこに置くか(照明)、映像の切り取り(フレーム)、繋げと切断 (モンタージュ)、から成り立っている。どうしようもなく、編集は常に、互いに対立する二つの解釈をもっている。たとえば「森」の意味は何だろうか?私の場合、「森」で知識人が殺されたのだから、「森」の表象と「生命」の否定の観念とが結合している。ところが、知識人は個体としては死んだが森のおかげで(共同体の)生命を得たなどと断固解釈する人だっているのだ! (「野生の少年」を育てた森の力を想像しているのか?)。私は絶対にこの解釈をみとめたくない。が、この私と同じ映像をみている人の中に、「森」の表象と「生命」の肯定の観念とが結合している人だって存在するのだ。(厄介なことに、現在は後者のように解釈する人が多くなってきたのではないか?) ここで、ドゥルーズにならって、思考の編集(構成された映像)を思考の命題関数と呼ぶならば、思考の命題関数は同時に矛盾しあう二つの観念を伴う一見不完全性定理的なもとしてあることを指摘しておこう。忘れずにフーコー風にいいなおすと、(「死」をみせる)可視的領域と、(「死」の意味を物語る)言説的領域は互いに独立したパラレルな関係にあるということだね。

 

 

...l'image devient pensée, capable de saisir les mécanismes de la pensée, en même temps que la caméra assume diverses fonctions qui valent vraiment pour des fonctions propositionnelles.
ーDeleuze

(カメラが命題関数と同等の様々な機能を果たすようになれば、それと同時に映像そのものが思考となり、思考のメカニズムをとらえられるようになる...)