ダブリンのジョット

言葉はイメージと一緒に学ぶのが楽しいですね。外国語もそう。初期ハリウッド映画の劇場は、ニューヨークに到着した英語が分からない移民で賑わったのでした。まるで母親が赤子をするように、映画が言葉を喋ろうとする者たちの面倒をみたということですね。ダブリンに行ったとき、このニューヨークの歴史のことを想像するために、もちろん自分の英語の勉強のためにも映画の講座でも受けるつもりでした。が、そういうものは全然ありません。仕方ないので、妥協して(笑)、15世紀に創立されたトリ二テイー大学のルネッサンス絵画の講義にもぐりこみました。一年間近くかけてスライド写真1000の一枚一枚の解説をききながら鑑賞しました。そこでジョットを知りました。実際に彼の壁画は細部がよくみえないのですが、こうしてスマートフォンで撮ったものを拡大すると彼の人間の顔を描いた神髄を確認することができるのではないでしょうか。13・14世紀のGIOTTOジョットは、なんといっても、Renaissance(ルネサンス)の先駆者です。ビザンチン中世に顕著な垂直の言説空間との連続性を断ち切って、水平線の言説空間をもたらそうと試みました。そのとき顔の表情が決定的にだいじになるんですね、一つ一つの<このもの>の多様性を表現するために。ここでルネッサンスとはなにか?簡単に一応140字のbotの説明では、ー>「Renaissance(ルネサンス);イタリア語の「rinascita(再生、復興)」に由来する。14c後〜16cに、イタリアを中心にヨーロッパで広まった美術的、文化的革新運動。ダヴィンチやミケランジェロボッティチェルリが活躍。」同時代の芸術家・詩人に、ダンテがいました。ダンテは最後の中世人ともいわれますが、ジョットとダンテ、どちらのルネッサンス人が偉大かと議論を呼びます。ジョットが偉いとする者、ダンテが偉いとする者で意見がわかれます。とにかくダブリンで、映画は、イメージがいかに物語るかというルネッサンス以来のシステムを継承していることをそれなりに実感した、というか、そう思いこまされたというか(汗)。しかし文化の中心に位置しているのは演劇なのですね。が、アートの世界では、遅くとも80年代までには、ビデオというのは、演劇の感覚(表象性)を切断して、テレビのなかに収まっていた映画のシステムを継承するテクノロジーだという認識が共有されていました。ビデオとコンピューターとダンスの時代がきます。現在、スマートフォンのビデオはユーチューブと接続されています。ジョットとダンテが礎をつくったルネッサンス以来ヨーロッパが五百年かけたつくった民主主義を、アジアでは百年、二十年、いや場合によっては十年の圧縮されたスケールでつくろうというわけですけど、この無理な圧縮の中で、全体主義を民主主義といったり、逆に、民主主義を全体主義と言ったりという、ビデオの映像を通じて、言い表せないようなおぞましい現象があらわれてくるのですね。見る側は、マルチェロみたいに、最初は同情するが、「大したことはない、他にもっともっとおぞましいものがある」とどんどん世界の悲鳴にたいして無感覚になっていくのが本当に嫌になりますがね。