「イタケ」挿話、「人間とその分身」、「「漢語」とは何か」

市民大学講座「20世紀精神史」のときだったかはっきり覚えていないが、東大文学部時代の同級生丸谷才一と一緒に授業を抜け出しては駒場喫茶店でそれぞれが相手に向かってフランス文学史と英文学史について喋りまくったという思い出話を池袋駅喫茶店で渡辺一民氏からきいた。お互いに、分野のちがうお互いの話を興味深くきいたという。ジョイス「ユリシーズ」は、この本によって将来新しい文学は現れてこないだろうといわれて事実上近代文学を終わらせてしまった。またヨーロッパに属していながらヨーロッパの(植民地化されたアイルランドという)外部からはじめて英文学史を統括することができた。フーコ「言葉と物」は、まだ世にあらわれてはいなかったが、構造主義・ポスト構造主義という思想の方向から全く新しい視点から思想史を、そしてフランス文学史も統括していくことになる。この二冊の翻訳の構想が、脱出した喫茶店の文学談義から沸々とはじまったのかと想像してみる。現在に繋がるものとして是非読み直す必要のある文章といったら、前者の「イタケ」挿話、後者の「人間とその分身」をあげたいと思う。神話的リアリズムをいうアイルランド知識人がデリダ批判をおこなうときには「イタケ」挿話の解釈が決定的に重要となるし、その解釈も「人間とその分身」の解釈を前提としている解釈であることはあきらかだ。さて渡辺氏が翻訳した「言葉と物」は長年読んでいるのに、自分にあきれるくらい、必ずしもその本質をきちんと理解できてはいなかったのだけれど、あらためて子安宣邦氏「漢字論」(岩波書店、2003年) を読んでいくうちにわかってくるものが沢山でてきたのである。その「漢字論」もそれ自体大変重要な仕事である。だがその第一章 (「「漢語」とは何か」)から、誰も行ってこなかった問題提起の意味を十分に理解してはいなかったことに気がつく。この悪い頭で、考えることをはじめなければならない。NOT TOO LATE ! 暫くこの三冊からの読んでいる文を時々引用すると思うので