大阪をおもう...

大阪をおもう...

勉強不足で大阪のことはよく知っているとはいえません。間違いを恐れずにいうと、大阪の事情に即した多様性の要求に沿った結果ではなかったかと考えました。だから厄介なんです。もし橋本を否定しきってしまうと(追放すると)東京の近代的中央集権化に対するアンチテーゼがなくなってしまうという不安感は、安倍を否定しきってしまうと(退陣させると)、<帝国>化するアメリカと中国に対するアンチテーゼを失ってしまうのではないかという不安感と非常に類似しているようにみえます。問題は、似非多様性の橋本・安倍に'頼もしい'と感じてしまうとき、橋本・安倍のマイノリティーと人権に対する全体主義的攻撃を容認してしまうだけではありません。多様性とは全く反対の方向を信任してしまうこと、大阪の自立・日本の自立とは別の、'適者生存'の競争の観を呈するネオリベグローバリズムに盲目的に従属していくことを忘れてしまうことがないかということです。60年・70年安保闘争から護憲運動、原発ゼロを要求した初期の反原発運動まで、市民運動は、「現実的ではない」「理想主義だ」といわれても、しかし理想がなければ人間としての基礎、道徳性も成り立たなくなるということ、そして高い理念的土台がなければ現実のまちがった政策を正せなくなるということを示してきたのです。橋本と安倍は敗戦後の市民の歴史を忘れさせようとしています。広い意味での彼らの歴史修正主義ですね。現実主義の彼らの似非立憲主義に対抗するために、市民運動はこれ以上解釈改憲の敗北を繰り返してはいけない、立憲主義と共に経験知を生かした他のたたかい方も一緒に検討すべき時が来たと考えます。この場合お前はもっと具体的なことを言えといわれればそれを言うべきですが、正直わたしにはその答えがわからないのです。現在できることといいたら、自分の人生とか労働・生活に即して問いかけること、というか、問いになっているのかも確信がない有様ですが、ギリギリこの問いを書くことができるかどうかで精一杯