「邦無道、危行言孫 (邦道無くれば、行いを危しうし、言孫(したが)う)」 (「論語」憲問第十四第4章)

「邦無道、危行言孫 (邦道無くれば、行いを危しうし、言孫(したが)う)」
(「論語」憲問第十四第4章)
大意 (君子は道を枉(ま)げるべきではないが、極言して禍を招くことは避けるべきである。伊藤仁斎)

「監獄の誕生」はあまりにも、ノンポリ社会学者たちに委ねすぎてしまったのかもしれないなあ、だって彼らのもとで'息苦しさパラダイム'ばかりが喋ることになった。だがそうか? 監獄機械としての人間の問題と、スターリニズムにおける監獄の知識人の問題、この両者は、フーコにおいて、互いに切り離せないような相補的な関係にあったとみるのが当然であろう。そうして、日本左翼知識人は(無誤謬主義に陥る真理的)理念に対しては、経験知の介入の不可避性を猛省したはずだった。ところが、その多くは再び、監獄の知識人の存在を見逃すことになった。あの天安門前の弾圧を目撃しても、現実には、形骸化した理念(中国スターリニズム)に対する、経験知の介入がいかに困難かと思い知らされる。もちろん真剣に考えてパラダイム転換した人たちもいた。(それにしても、20世紀最大のスキャンダルともいえる、反ファシズム共同戦線を決定的に崩壊させてしまった、「独ソ不可侵条約」のヒトラーとの共謀関係を知りえたはずなのに、ハンガリー事件までスターリンを批判しなかったサルトルのことをいえない。) 現在尚、経験知から劉暁波その人を擁護することになると、言論的に孤立することになるか、酷い場合は誤解によって「反中」の烙印を一方的に押されてしまうという危険すらある。その結果、アジアへの大きな共感を持つ故に、右翼からは左翼と非難されてきた知識人が、今度は左翼からは右翼と非難される羽目に!? 「論語塾」で学んだ「邦無道、危行言孫」 とはこのことか?ネット言論が形成されつつある現在そして2500年前の木簡?の昔からあった、自己の言説の展開に責任をもとうとする人々が避けることができぬ、党派としての学問、党派としての言論の政治性は本当に厄介だね