貧富の格差と戦争

第二次世界大戦前ほど金持ちが金持ちになり貧しいものは貧しくなった時代はなかった。貧富の格差のことである。映画監督ヴィスコンティーが描いたようにたとえ地獄に墜ちることになる真っ暗な未来だとしても、なんやかんやいってもやめられないのは、戦争は資本家(総体としての資本)にとって儲かるのだ。だから、現在に眼を向けると、傍観者な観察といわれようとも八十年代ドゥルーズが示唆していたことを踏まえると、武器を生産するほどの大企業の賃上げ要求を中心とするような労働組合とその労働者は寧ろ、最初から剰余価値の生産の為に生産する資本、つまりその資本を構成する可変資本としてとらえた視点はそれなりに正しいのではなかったか。ここで言いたいことはその場合、資本の有機的構成の効率化によって絶えず過剰となる雇用を、軍隊が文字通り雇用することになるから、不足がないという体制のことである。もし不足が起きたら、現在イギリス保守党がこの数年間ずっと期待していたように、ただ、国家は、雇用を作り出す大きな戦争に巻き込まれていけばよいのだ。再び増大する剰余価値を掴むことができる。ここから怖ろしいのは、その他は存在しない、あるいは存在しても意味がないとする言説が覆うこと、1930年代がそうだったように。現在は「この道しかない」のか? この疑問は意味がない。そのかわり、軍事部門を自立化させそれを生産部門の中心に見事に据えたネオリベ国家を称え、そして地球の裏側で起こるドンパチ戦争を待ち望んで、日本会議が、救済神学「美しい日本」を高らかに唄うぞ。戦争こそが精神の不均衡である過去の罪悪感を清めてくれると。大和国家の詩人になれ、そのためには現代語訳で蘇った「古事記」を読めと。この安倍への真っ直ぐな共感を通じて自らも加担している言説の監獄のもとで、どの人間も、心の中心から洗脳されていくことになる近未来なんていらない。この中心から脱出する道はないのだろうか?きっとあるはずだとおもうよ