ロンドンに来るジジェクの使命は何あったか?ヒューマニズムこそがスターリニズムだと告げにくるだけではない...

ポストモダン共産主義から、ポストモダンのモダン化という不気味な教説が本屋の棚に並んでいるのは本当に不気味だ。地層を形成している書棚の表層は売れ筋の人気の本が占める。左だか右だかわからぬ、したがって右とみなすのが妥当であるアジアの共産主義民族主義の本で占められている。表層の下は、近代の民衆史的教説を根底にもった天皇制構造論の本。化石が散在する深層には、講座派的近代を包摂した丸山真男と中途半端な連中の市民社会説教集。だが私が辿りたい地層は、フーコ・ドゥルーズのポスト構造主義の地層、オリエンタリズム批判のサイードの地層、グローバル資本主義の時代における歴史の終焉の言説に反発したデリダの市民から発言した新地層。しかしいまだにそれらは外国人の頭で考えた地層であって、日本の思想の問題との関係を十分に考えた思考の地層を形成してはいないようにみえる。間違いを恐れずに書き進めると、ジジェクの方法としての知的挑発にたいしては、それを実体化する反動が存在するようだ。反論してくる知識人達を前にした、知的挑発を通じて語ったジジェクの問題提起の言葉は論争の伝統に基づいておりそれは凄いことだと思うが、翻訳で無媒介にジジェクを紹介する解釈者には蒼ざめてしまう。解釈者が翻訳するとき自らがどういう解釈の枠に立って訳しているのかを明らかにしないのは、人気の現代語訳「論語」の場合とおなじである。さらに言えば現代語訳「古事記」は、いやもう言うまい。ロンドンに来るジジェクの使命は何あったか?ヒューマニズムこそがスターリニズムだと告げにくるだけではない。政治的非文化的コミュニズムから文化的非政治的ポストモダニズムへ転向した文化イギリス人に向かって、君の講演会で真ん中に座る聴衆者ばかりを相手にするな、左側に座っている聴衆者からの質問も受けよと諭すために来たのである。ここでジジェクはいくら夢の発明のことを喋っても、破たんしたスターリンを、毛沢東、レーニン、ロベスピエールにおいて回復しようとは思っていないだろうし、回復できるとも思ってはいない。ただポストモダニズムが(スターリニズムである)ヒューマニズムに後退するくらいなら、モダニズムの共産主義の悍ましい処刑場へ行けということだったのではないか。そこから、方法としての新しい思考が生まれる可能性があるならね。なにも生まれないかもしれない。ただ全部が破綻している現在だからこそね、依拠できるものない。方法的にラジカルでないと二十一世紀の思考は開かれない。