ゴダール研究 ー Godard, Histoire(s) du cinéma

至るところに徴が存在している、その存在の可能性もふくめて。そして徴について<前>と<後>の思考を成り立たせることができるのが映画たちであり映画史なのだ。複数の映画で構成される映画史だけが<前>について問うことができる。この徴が誕生する<前>に、これを懐胎していた徴は何であったか?またはその理念は何であったか?というふうに。この映像(映画)が現れるとき、この<前>の映像(映画)とその理念は何であったか?というふうに。そうして現存する対象と不在の対象について考えることができるのも、そもそも徴がそこに存在することによってである。さらに、その<前>に他のものが存在していたがそれは何であったかと考えることによってではないだろうか。われわれが考えるのは、生まれた後の知覚できる徴と生まれる前の知覚できない徴とのあいだの距離のことかもしれない。その徴をそこの場所から失うことは、直になにかをそこから失うことである、と同時に、その徴が存在していた<前>にそこに他の何の徴があったのか、と、共同体が問う身振りとジェスチャーを不可能にしてしまうのだ。場合によっては、その場...所に生きる共同体にとって、現在の経験を差異化していく可能的な意味世界ー生きることの意味世界にかかわるーを失うことにもなる。古い映画をそれが嘗てあったその場所とともに失うとは、こういうことを意味するのだ。時間の中にある<他>の痕跡を共同体が失うかもしれないということだ。徴である映像(映画)の保存は意味世界の保存であり、それは倫理的な問題に関わる問題なのだろう。だから共同体の意味世界との関わりを、決して偶然に、資本世界の恣意に、委ねてはならないとおもう。
En ce moment, on travaille au Mozambique par exemple, c'est un pays qui a deux ou trois ans d'indépendance; il y a un petit Institut du Cinéma, nous on vient faire quelques études sur la television avant qu'elle n'arrive là, c'est-à-dire bien avant ; comme si on se mettait à étudier un enfant dans le corps d'une femme bien avant qu'elle rencontre même l'homme avec qui elle fera cet enfant...(Godard)