自由に喋ることを非難しないでくれ

自由に喋ることを非難しないでくれ

二年前と比べて感じることは、奈落の底から、軍国主義の方向と確実に一致してきたという圧力である。全体主義も、全体主義へのアンチテーゼを包摂してきたような陰険最大化のポイントに来たようだ。安倍の憲法を微塵も尊重しない態度に変わりなし。言論の自由は大切だから、言論の自由を守れという警告を紋切り型にしてはならない。言論の自由は、一回一回創造する過程である。それは宝物の如く所有できない活動である。これに関して思うのは、大正デモクラシーの自由についてである。それは、大正時代にどのように語っていいのか分らなかったという可能性も考えられる。ヨーロッパの物差しで測ってもヨーロッパの民主主義しか測れなかったのだから。日本人は大正デモクラシーを戦争を経てはじめて語ることができたのではないか。だが語ることができるからといって語られる対象が必ず存在するとは限らない。戦後、(中断したとみなされていた)大正デモクラシーの自由を語ることができたときには、それが既に永久に消滅した後だったかもしれない。戦後の民主主義は、彼らが守れという大正デモクラシーとの連続性の幻想を断ち切った地点から、自由を初めて制作するしかなかったのではないか。では今日新しい自由とは何か?日本全体主義全体主義である所以は、公の政治の領域に限らず言語・労働・生活の隅々までにマニアックに介入してくる調和を重んじる小さな規則に従わせようとして、自由に喋る行為を非難する統制に存する。2015年、予定調和を重んじる'社会常識'に反しても、自由に喋る行為を非難しないでくれという主張が戦後はじめて現れたのである。この主張は以前に一度も言われなかったものである。巻き込まれていくなかで、芸術と思想と行動は、自由に喋ることを非難しないでくれと主張する生き方の問題をしたたかに表現ができるかどうかだ。専ら私に関心があるのは、自由に喋ることを非難しないでくれと一番抑圧されたものたちが統制原理に反発して一回一回創造するこの巻き返しの主張