表現と感化

表現する(中のものを外に出す)でいわれる意味の内容が、「伝達する」とか「表象する」というならば、芸術にとっては意味があるのは、感化(外のものを入れる)しかないと主張したいという気持ちになる。「芸術家は外形だけみるとまるでなまけているように見えるが心の働きは大変なものじゃよ」(死神のセリフ、水木しげる「妖怪名言集」)。死神だけが真の表現が依拠するものを指させる。死神の如く、三十年代アルトーが聖パトリックの杖(アムステルダム闇市で手に入れた)を返しにダブリンにやって来たのは、絶対的に失われた過去を中(現在)に入れようとする芸術的パフォーマンスであった。絶望的に、伝達と表象がなかったが、芸術は自らを感化の大きな運動に委ねたのである。外のものを中に入れるのは、共同体が意味作用に関わる常套手段だ。ただ二週間彷徨したアルトーの足取りを辿ってみると、「関わる」とはいえないほど、共同体に属するが共同体の部分になることがない芸術の絶対的な孤独の意味に衝撃を受ける。ハリウッド映画と対抗するしかもはや共同体は存続できまいとおもって政治の芸術化に取り組んだナチスだからこそ、共同体の感覚に鋭敏な心の中心から、芸術至上主義と呼ばれる絶対孤独を極限的に恐怖することになったのは必然性があった...


Ça s'est fait par des homes, des femmes qui vivent en société, à un moment donné qui s'expriment et qui impriment cette expression, ou qui experiment leur impression d'une certaine manière. (Godard)「映画の歴史は、社会のなかで生きながら、ある時期、自分を表現したり、その表現を感化したり、あるいはまた、自分が受けた感化をなんらかのやり方で表現したりする男たちや女たちによってつくられたのです。」(ゴダール)