戦争を繰り返さないために考えること。考えるためには、隠されたものを映像で開示すること。

海外メディアからは戦争神社だと見抜かれている靖国神社。近代祭祀国家の中心にある、闘う国家だけを祀ることを目的としたこの靖国をいかに批判的に相対化していくのか?光州事件のホン・ソンダム氏の応えは、光州事件のときと同じように、やはり映像をつくることであった。戦争を繰り返さないために考えること。考えるためには、隠されたものを映像で開示すること。東アジアのYSASUKUNISM展から受けた感化を表現すべきときが来た。靖国の建築物からは、パレスチナの住人達を罪人にしていく国家イスラエルが拵えた壁のことを思う。本来ならば等しく祀られる死者達の間に、国家が拵えたヒエラルキーがつくられる。例えば沖縄戦のときの一般住民の死者達は、お国の為に戦死した英霊とは区別されている。これは人々を分割する排除である。中近東で爆撃される市民の圧倒的な数の死者への関心が小さいのは、いつまでもこのヒエラルキーをやめようとはしないからではないか。さて戦争を隠蔽した隠蔽も描くということがなければ本当ではない。だがいかに隠蔽それ自身を描くのか?直接には靖国問題を扱っていないだが、坂口安吾「桜の満開の木の下で」を演出した広渡常敏氏の舞台に、考える手掛かりがあった。アイルランド公演にきた東京演劇アンサンブルの舞台撮影のときに描いた舞台スケッチを見直す。と、あれだけの数の女性(女房)を斬り殺した、山賊が犯した殺戮の現場を目撃しておきながら、これを都合よく忘却するために、悍ましい血痕を、美しく降りしきる桜吹雪の映像と取り換えてしまうことが起きる。これが、広渡氏が舞台で呈示しようとした、取り換えることを本質とする隠蔽ではなかったのか。だが痕跡は完全に消すことは不可能だ。痕跡は必ず残る。あるいは、大地を覆うほどの桜吹雪の不自然さから、隠蔽されていたものが現れることになる。そうして、思考するために十分に見る眼をもたなかった自分に気がついたこれを契機に、破片のような映像がなんとかやっと現れてきたような気がする