<われわれはどこからきたのか?そしてどこへ行くのか?>という起源を物語る政治の芸術化が繰り返されているようにおもわれる。ギリギリ全体主義の左翼知識人が得意に分析してみせる'反復する歴史のリズム'も、この種の起源のでっち上げだとおもうのだが

イノセントにイギリスの議会制を称える日本人をみると、それによって地球の半分を植民地にして収奪した帝国主義を称えるどうしようもない愚かさをみてしまう。イギリス人は日本人みたいに軍国主義の自己規律にとらわれた心の冷たい冷静な人々という評判が常にある。それとは対照的に、イタリア人というのは、ハリウッド映画とか19世紀大オペラを通じて描かれているように、狂気の民衆の如く思われているが、それは真実ではない。イギリス人は狂気を隠しているだけで、ただ隠すのがうまいのよ、と、英国人を夫にもったロンドン在住のイタリア人の女性が私に語ったのである。イラク戦争のように戦争が起きると隠しきれないと言ったのだが、このとき女性は英国批判をしたかったのか、A級戦犯合祀の靖国神社公式参拝をやめようとはしない日本の現状を批判をしたかったのかははっきりと判断ができなかったのだけれど。ここで、わたしは、詩の芸術をつくる想像力の源泉としての狂気の意義を否定するのではない。ただ、戦前は、皇室 (天皇)の起源と、(民族したがって国民)の起源を神話的に同一化する・一体視する狂気が問題だったことを言いたいのである。戦前と同じことが現在にそのまま繰り返されることはないだろう。寧ろ同じかどうか分からないほど原因と結果を明確に指示不可能な事柄が全体的に陰険に進行するのだから。この不安感のなかで、安心させるために?、<われわれはどこからきたのか?そしてどこへ行くのか?>という起源を物語る政治の芸術化が繰り返されているようにおもわれる。ギリギリ全体主義の左翼知識人が得意に分析してみせる'反復する歴史のリズム'も、この種の起源のでっち上げだとおもうのだが。秘密保護法と戦争法を契機に、権利の無い国に反対する声を封じ込め、多様性を統一的<一>のもとに包摂してくる言説を脱神話化することが大事だし、あるいは、弱腰だけれど、起源の複数化を物語る言説によって抵抗することができないものだろうかとあれこれとかんがえているのだけれど