GODARDー「映画とテレビの真の歴史への手引き」

「映画とテレビの真の歴史への手引き」という題の映画の一種のシナリオを、共同プロデュース作品のようなものとしてつくろうと提案していた。その歴史が映画とテレビの真の歴史であるのは、その歴史が、文章(テクスト)からではなくー図版によって解説された文章からでさえなくー、映像と音からつくられるはずだからである。」ここでゴダールが問題提起しているのは、大衆とはなにかという探求だったと思う。敢て対象(大衆)を実体化せずに、寧ろ対象(大衆)を成り立たせているなにかを通じて対象(大衆)を語ろうとした。そのなにかが「映画」と「テレビ」なのだ。このとき、射影という思考の形式が鍵となるー<前>と<後>を関係づけるために。テレビの意味を問うとき、(テレビの前のメディアであった) 映画にテレビを射影してみる。(テレビの知識を重んじた伝達可能性はすでに映画にあったことがいわれる。) 今度は映画の意味へ行くときは、(映画の後にきた)テレビに映画を射影したら何が言えるか?(映画の演劇に依存しない表現は、ヒチコックのような映画監督がテレビスタッフを利用して制作した映画に際立ったといわれる。) また映画とテレビをつくる人々の歴史に向かって映画のスクリーンを射影する。新しく発見されることはなにか?ここで大衆の意味が明らかにできるのか?方法としての大衆を語ること、ここから知識人は思考の歴史として映画の歴史を抽象的に再構成していく。必然として、最初から映画史は、文字を読む人(知識人)が文字を介さない対象を考えこれを伝えることがそもそも可能かというパラドックスにつきまとわれることになった。(精神分析は夢を分析できるか?かかわることしかできないのではあるまいか。)ほかに、ビデオ映画史制作のときは、八十年代から展開したグローバル資本主義と戦争の問題が、大衆を語るゴダールの問題意識に干渉した。「最悪の映画史」という戦争を修飾した言葉に現れたように、知識人の中で大衆との倫理的な分裂が絶えず生じたのである