ワイズマンとゴダールのあいだの論争

「お前は非国民だ」と指さされたらもうおしまいだ、どこにも生きていくことができなくなる。と、「はだしのゲン」では、「戦争に反対している人は国に逆らうこわい非国民だ。付き合うのをやめましょう」と街頭で喋っている人々に<光>があてられている一方で、非難されている人間は<闇>の中におかれている。手前勝手な普遍的な?正義を喋る<光>の領域に対して、分裂しなければもうやっていけなくなるのだという人間の経験知としての<闇>が侵入し広がっていくチャンスがあるのか?「はだしのゲン」を読むとき、ハラハラしながらこのことを考えたものだ。中沢啓二の強いコントラストの絵は、アムステルダムレンブラントの残したスケッチをみたときおもいだしたのである。レンブラントのあのスケッチたちは光と闇との対決... やはりゴダールレンブラントこそドキュメンタリーを確立した最も大切な画家とみなしているのではないだろうか。下の編集は、過去の作り物の映画に描かれた収容所ユダヤ人たちの演奏の一場面に、レンブラントがスケッチした自画像を重ね合わせている。これに関して、記録マニアのナチスならば必ず撮影していたはずだといわれるが、現在まだ公に出てこないガス室の中の地獄を記録した決定的な映像について、ゴダールと「ショアー」の監督の間に激しい論争が起きた。証拠の映像が不在である以上収容所は無かったと極右が主張する歴史修正主義に対しては、厳密な証言(言葉)から真実を再現すべきだとワイズマンはいう。ゴダールの方は、利用できる映像の編集によって代理させること(substitution)が可能で過去に介入すべきだと主張した。「映画史」で示された下の編集はその一例。ワイズマンの主張のほうが説得力があるが、問題は、現在そういう映像が出てきてもそれを見た極右が「それがどうした」と言う可能性がある恐ろしい事態になっていることだ、日本の極右の場合にもいえる事だが。人間性の崩壊に関する危機感がゴダールの側にある