ポスト構造主義の哲学は福島と沖縄の問題を考えることが不可能なのか?

聖書のこの二つの文を読みとき、「文字」の侵入に怯える「息」の魂の姿がみえるようだ。Il souffla un souffle de vie (命の息を吹き入れられた)。La lettre tue, mais l'esprit vivifie (文字は殺しますが霊は生かします)。だが原初テクストで言われることの意味内容を言うことは不可能だ。ところで近代的な解釈からのみ、「息」「霊」でいわれる本来的なものを「声」と読める。と、ここからデリダが問題にしたルソーがいう声の共同体の構造ー文字を劣った二次的なものとしかみなさない近代の言説ーがみえてくる。声の共同体は'文字は殺す'と語るとき、整理し分類し秩序づけて排除する文字を告発している。このとき奇妙にも、声の共同体の文化には自らが文字の文明に先行するという自負があるようだ。(声の共同体の擁護者が前提するように)文字が歴史の観念(何が「先」で何が「後」かという観念)をつくったとみとめているのに、この歴史の観念に依拠する「声」が、「文字」のほかにどこから現れたと主張するつもりなのか。合理的に考えれば結局、書記行為の文明が存在するところに声の文化が生まれたのである。だから声の文化の言説が「この道しかない」('声しかなかった')と主張するとき、野蛮な言説になる。そこで文字は歪に代理性という(声の対抗物として)枠づけられるし、(他の道をさがす)テクストが外部と絶えず繋がるという思考の外部性が消されてしまう。これは安倍自民党のこの道しかないを繰り返す同一反復の教説の根底にある同じ野蛮さだ。さてポスト構造主義の哲学は福島と沖縄の問題を考えることが不可能なのか?絶えず他の道をさがすポスト構造主義の哲学のあり方を利用できないだろうか。その場合<なにもかもダメになったときどんな国の形があるか>と問うては再び未来を原発稼働と軍事基地化にもどす同一性だ。それぐらいならば、<国の形を求めるからなにもかもダメになったのだ>と差異を考えたほうがいい