イスラムが中国にあたえた影響とは?

アイルランド時代ダブリンの近所で古典ギリシャ語・ラテン語と一緒にサンスクリット語を教える凄い塾があったので数週間初心者として行ってみたが、語学の成果はゼロだったのであるが(笑)、(教会のスキャンダルに絶望した真面目な)中流の人々のアジアの言葉を介したネオプラト二ズム的再構成の熱みたいなものを目撃することになった。アイリッシュの講師はヨーロッパのインド学からのサンスクリッドの研究者だね。京都のシナ学がそうだけど、日本の東洋学もヨーロッパの中国でありインドだったりする。中村元も例外ではない。さて1世紀には仏教が中国に伝来していたことは確かで、インド仏教の超越的な「空」の観念は思想革命をもたらしたと考えられる。だがイスラムのあたえた影響についてはそれほど明らかになってはいないという。ここで、人間だけでなく動植物にも、性があり(したがって理がある)とする、きわめて中世的な朱子のテクストの言葉に注目したい。近代からは容易に理解しがたいことを言っている。はっきりとは証明できないけれど、ここに、井筒氏がいうような絶対無分節の存在リアリティーを喚起する可能性を子安氏が示唆しておられた。大変興味深い話だと思うので、私がそれらしい文章をみつけてきた。「ある人が問う、「人や物の性は、根源が同一であるのに、どうして差異ができるのでしょうか?」 先生いう、「人の性は明るいか暗いかが問題となるが、物の性は全く偏り混濁している。・・・張横渠が「どんな物でも、性のないものはない」。動物にも理があるが、それはちょうど宝珠が、きわめて濁ったところに落ちているようなものである。けれどもその受けた気にも、たまには多少明るいところがある。その点からみれば、くらくはない。たとえば虎や狼に父子の仁があり、蜂や蟻に君臣の義があり、豺や獺に祖先の祭りがあり、ミサゴに夫婦の別があるのを、仁獣といったり、義獣といったりするのが、これである。」(朱子文集・語類抄)