体癖

多分文学とか思想にかぎりませんね、一見饒舌になんでもかんでもしゃべり始めたようにみえる書くプロセスというのは、全体化されることを拒む領域から自ずから生まれてくることではないでしょうか。多様性というほどではないが、排他的な全体化を受け入れることがない民間治療といわれる身体を対象とする探求の沈黙領域に危うくなんでもかんでも語りはじめるときがくる必然性について考えた時期が二十代にありました。▼身体のことしか語っていないつもりだったのに、人間の自発性というか自由を語るときでも身体から語っていなかったのに、国体批判とみななれて、戦争中に言論の厳しい弾圧を受けた感じたほどに、(対象から自立した)思考の自立性について考えることになったのかもしれません。が、そういう問題意識は常のこととして組織をいかに保っていくかという現実的関心のなかに忘れられていったようにみえます。だが消滅しきってしまうことなく痕跡が残ります。▼現在は野口氏の本の四冊は一般の書店で出るようになりましたが、当時は間違った読み方を避ける為に広く読まれるべきではないという暗黙の了解がありましたが、八十年代に内弟子の一人であった最高技術者柳田氏の呼びかけで親しかった7-8人ぐらいでしたか、'健康'という実践的関心にとらわれず、(野口氏の死後多分内部の方々も段々どう読んでいいのかわからなくなってきた饒舌に語る)「体癖」をテクストとして自由に読むという試みが九段下道でおきました。外部の私も参加しました。当時は身体と治癒・治療の教説をいったん離れてどう読んだらいいのか、言葉にすることができませんでした。が、今から思うとじぶんの関心を占めた中心的テーマは、なんというか、文字を読む人が身体(非知)をいかに考えるか?というところからはじまって、全体の部分に組み込まれることを拒むような、思考の形式を徹底していくと、全体と隣接しながら、語る対象から自立していくような書くプロセスに出るというかそういう運動を考えるにいったというか・・