射影と思想間交通

ロンドンのとき読んでいたあんちょこのおかげで、ユダヤ哲学といわれるものがイスラム思想から生まれてきたかという歴史がひそかにわかったような気がしたけれど(笑)、ユダヤ哲学が何であるとかイスラム思想が何であるかはどうでもいいのです。どうせ自分には分らないと諦めています。▼もっと自分の関心は、受容の仕方というか、この思想に他の思想がいかに射影されてくるその仕方にあるのです。なぜ射影というかというと、思想というのは、なにかとの関係でしかみえてこないからです。そのとき、この思想(ユダヤ哲学)に他の思想(イスラム思想)が射影されるとき、他の思想の「本質」というか「奥行き」が消失しています(そうみえるのです)。▼そしてこの思想(ユダヤ哲学)が他の思想(ヨーロッパ人文主義、私が知っているのはスピノザぐらいのことだけれども)へ行く場合も、この思想の「本質」が消滅する、あるいは他において理念化されることになる。これが面白いのです。▼イスラム思想が中国哲学(朱子)にどんな影響を与えたかはあまりよくわかっていないとのこと。(もしそういう受容が起きたという前提で話すと、しかも井筒が言う「分節化されない世界」'がそういうものだと想定しますと)、この場合も、朱子哲学においてイスラム思想の「本質」が消失しているようです。だが痕跡はかならず残ります。どこに?▼このとき、奥深いところに隠れているものをさがすという態度ではなく、書いてある表層に答えが全部あると考えてみるのは、一つの思想転換が必要です。だからわれわれが気がつかないか、というか、気づこうとしないだけのことなのかもしれません。▼朱子哲学の思想スクリーンには、「分節化されない世界」の根底に本質(「性」)があるのですけれど、逆に、ここから、「分節化されない世界」の根底に本質をみとめないイスラム思想という光源が辿れるかもしれませんね。ほんとうのところはわかりませんが、方法的には正当化される、こうした射影としての思考が私の最大の関心事なのです。