和辻が想定した日本語をもった文化の共同的主体について

昭和十年代の全体主義の舞台に立つことになったのは、ほかでもない、和辻が想定した日本語をもった文化の共同的主体でした。この悪夢がふたたび安倍自民党の救済神学(日本会議)のもとでくりかえされることはないなどとは誰も断言できないでしょう。本当に楽観できません。そのとき彼らが推進する全体主義に抗して、(日本民族の古代を思い出す)作者の死を言う抵抗をだれが行うのかです。書くことは絶対の孤独。匿名的多数に還元されない絶対の孤独、(ハンナ・アーレントが指摘したような)表現主義のような芸術至上主義の反時代的主張が、孤立に追い込まれることなく、巻き返していくほどの意味をもつ可能性がすこしでもあるのだろうかとかんがえています。それとももっと他の方法があるでしょうか?あるいはどうしようもなくもうすでに手遅れとなってしまった?その場合でもできることはなんでしょうか?
「神話・民話として語り伝えられたこの「先代旧辞」をもしすぐれた一つの作品というならば、その本当の作者とは一つの言語(日本語)をもった神話・民話の想像力豊かな語りの匿名的多数の主体であるだろう。日本語をもった文化の共同的主体とは日本民族にほかならない。『古事記』の「先代旧辞」を和辻が一つの芸術的作品と認めたとき、彼は作者としての日本民族をその作品の背後に見出していたのである。」(子安氏)