2016年とはなにか?

2016年とはなにか

総体の問題に直面せざるをえない状況で、非常に複雑な現象に投げ込まれて生きている現実なのですが、しかしながら根本のところは、フランス革命とそれが呈示した普遍主義の理念に関係しないものはひとつもないと考えるようになりました。フランス革命の理念は、<人が一人でも飢えたりしてはならないし>且つ<一人でも喋る権利が奪われてはならない>でした。そこから、19世紀精神は民族と国家が<人は一人でも喋る権利が奪われてはならない>を追求しましたが、資本主義の内部で<人は一人でも飢えたらダメなんだ>を実現しえませんでした。貧富の格差が生じました。20世紀精神は、19世紀精神とは逆に、<人は一人でも飢えたらダメなんだ>を追求する社会主義が現れましたが、国家の内部で<人は一人でも喋る権利が奪われてはならない>が実現できませんでした。現在マルクス主義の平等概念を捨てた社会主義国言論弾圧のもとに貧富の格差をネオリベ資本主義国と同様に生産しています。さて21世紀精神ですが、ウヨウヨウロウロしワイワイガヤガヤする市民たちが、19世紀と20世紀の経験を生かして、<人は一人でも飢えたらダメなんだ>かつ<人は一人でも喋る権利が奪われてはならない>を同時に目指しているかもしれません。挫折してしまうかもしれません。最悪なのは、<人は一人でも飢えたらダメなんだ>も<人は一人でも喋る権利が奪われてはならない>も否定していく、つまり安倍自民党が「この道しかない」と指さす方向です。正直他の問題は権能というか自分の力も責任も及ばないところがあり諦めている事柄も多々あるのですが、しかし人間の想像力とか良心の問題についてなら考えることができることがあるかもしれません。その場合、人が一人でも飢えたりまた同時に喋る権利が奪われたらその普遍主義はダメである、もはや人間はやっていけなくなるのだというカントがいうような意味の理念があってこそ、想像力と良心が成り立っていくのではないかということを考えています。

今回の少女像撤去の問題から明らかになったことは、国家日本が過去に生きた人々一人一人の人間性をいかに踏みにじってきた事実が隠蔽されてしまうという問題だけではありません。▼少女像撤去の問題は、少女像という痕跡を通じて歴史を知ろうとする未来の人々の人間性も踏みにじられるという問題を含みます。▼21世紀精神とは<人は一人でも飢えたらダメなんだ>と<人は一人でも喋る権利が奪われてはならない>を同時に目指す精神ではないかと考えますので、声なき声voiceless voice(s)を可視化することの努力こそ大切なのに、歴史修正主義者たちと日本会議はそれとは正反対の方向のことをしています。▼なんでもかんでもカネが「最終的かつ不可逆的に」モノをいうとかんがえるようになった国にはなんかの感性の進歩があるのでしょうか?
Disgusting ! Prime Minister Shinzō Abe and most members of his Cabinet are affiliated to the openly revisionist organization Nippon Kaigi, that denies the existence of Japanese war crimes, including sexual slavery for the military.
painted by takashihonda

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