3・11以降安倍自民党がつけあがっている現在は、関東大震災の<後>に起きる復興幻想を契機に右翼思想が現れ始めた戦前の歴史について再び考えてみることは無駄ではないでしょう

3・11以降安倍自民党がつけあがっている現在は、関東大震災の<後>に起きる復興幻想を契機に右翼思想が現れ始めた戦前の歴史について再び考えてみることは無駄ではないでしょう。必ずしも大川周明が本当のことを言っているとは思いません。昭和14年に書かれた「日本二千六百年史」はそもそも本の題名から間違っています(笑)。▼ただ、「童子問」を「教育勅語」のようだときめつける絶望的に無知な渡辺昇一という愚かな御用学者はせめて大川周明を読むべきだと思うのは、世界宗教を研究し古典を広く読んだ大川だからこそ彼は学ぶことの重要な意義を知っていたからです。大川はこう言います。「個人の魂、民族の精神もまた、決して生まれながらに豊富・荘厳・偉大ではあり得ない。そは博く学び、濃かに思い、篤く行い、その魂に入り来る一切を抱擁して、向かうところを之に与えることによって、歩々偉大となり行くのである」。▼ところで、逆に、「個人の魂」が「偉大」にならないとしたらそれはなぜなのかと考えてしまいました。だがその答えもちゃんとここに書いてあります。「個人の魂」は「民族精神」のもとでは「博く学ぶ」ことが難しくなるからではないでしょうか。「博く学ぶ」ことがなければ、<他>を受け入れることが起きずに、渡辺が称える「教育勅語」の不毛な孤立に絡みとられてしまう危険があるのです。▼例えばそういう危険として、「個人の魂」は、アベノミックスの「民族精神」のもとでは、他との接触によって豊かに育まれる文化の可能性を拒んで動物の如く生存手段にしがみつく「生まれたまま」ではないでしょうか。▼事故原因も分からない危険な原発を再稼働しこれを武器と共に海外に輸出するとしたら、世界地図のどこにあるかも指させぬ国への空爆を手伝うとしたら、そして東アジアの人々が願う平和共存を嘲笑う歴史修正主義者に満場一致の拍手するしかないとしたら、「日本国家」の「偉大」しか存在しないし、そこでは「個人の魂」は生きるに値しないだろうとおもいますね。