思想史は運動Bewegungをどのように語ったか?

思想史は運動Bewegungをどのように語ったか?

1、運動の哲学は、機械論ー目的論の対立にかかわっている。アリストテレスは、運動を、可能態の現実化として目的論的に捉えた。中世でも、目的論的自然学が支配的で、運動も目的論的に捉えられていた。しかし近代になると、運動は、機械論的に捉えられるとともに、運動を捉えるすっがくとしてとして関数や微分学ー積分学が展開されるようになった。ヘーゲルは、一方で、「自然の無力」を主張し、自然が自立的に発展することを否定しているが、運動そのものを否定しているわけではない。ヘーゲルは、自然に発展がなく、自然は同じことの繰り返しだとみなしたが、運動を物質Materieの本性をなすものとしてとらえていた。「運動のない物質はなく、物質のない運動もない」。ー「ヘーゲル用語辞典」(未来社)より

2、若いマルクスエピクロスに、目的論と機械的決定論の双方を、原子の運動の偏差から批判する企てを見出した。イオニア派の思想はこのようにマルクス唯物論において蘇生したのである。・・・量子力学は、ある意味で、質量と運動は不可分離だというイオニ...ア派の考えを回復したのである。すなわち、量子は粒子(質量)であると同時に波動(運動)である。ー柄谷行人「哲学の起源」(岩波書店)より

3、理論といえども、衆人を掴むや否や、物質的な力となる。理論はそれが人に即してad hominem 論証するやいなや、衆人を掴むことができるのであり、そしてそれがラディカルになるやいなや、人に即しての論証となる。Radikal sein ist die Sache an der Wurzel fassen.Die Wurzel für den Menschen ist aber der Mensch selbst.ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である。
マルクスヘーゲル法哲学批判序説」(大月書店)より

4、学問としての江戸思想は、近世の市民(=町人)が立ちあげた。門の前に通った農民も招き入れられたというエピソードがある、「古義堂」での講義は、今日の政治演説のように一対多の配置で行われたのではなく、「一対一」(仁斎と聴講者)の配置で行われたことに私は注目する。物質の自己運動のごとく、思考に偶然性とか相対的なものが介入したから、その結果、定義は重んじられることはなかった。なにかそうして市民が願っていたものは何だったのか?かれらが望んでいたのは、政治的なあなたとわたしの関係である「即自かつ対自的に普遍的なもの」が、市民たちの学ぶ関係によって規定されることだったのではないか。勿論江戸時代の町人たちは武士が独占していた政治から厳しく排除されていた。だから政治を語ることは危険なことであったから代わりに(市民)道徳について語り合ったというわけである(本多)