復興「日本精神の形」は本当にそれほど平坦で紋切り型だったのか...?北一輝の場合

復興「日本精神の形」は本当にそれほど平坦で紋切り型だったのか...?

▼昭和ファシズムの種は大正時代にありました。1923年の関東大震災が大きな契機となりました。当時の社会を眺めますと、関東大震災から五年後に岩波文庫が創刊されています。当時ヨーロッパの留学生だった三木清たちが岩波書店リクルートされて岩波文庫をつくります(アメリカの背景を持っていた林辰夫も大事な役割を果たしました)。関東大震災という、未曾有の崩壊からの再生の形の一つとして、世界文学全集と文庫ブームが起きたのですね。ヨーロッパと同時代的な、国際的な前衛文化の二十年代が日本に展開することになりました。「上流階級から文明を取り返せ」という出版社の呼びかけの下に、中産階級は、所詮幻想でしかありませんが、コンパクトで体系的な'知'の消費を爆発させたという時代でした。▼しかし中には外国の思想や文学に危機感を表明する者たちがいました。彼らの声に耳を傾けてみます。「余輩は尊王忠君の名を負へるものが此の反旗を必ず法律の国境内に侵入せざらしめんと努むべきを信ず。注目すべきは全世界の後援によって叛徒の...力の測るべからざることなり。彼らはニーチェによりて個人至上主義の弾丸を供給せられ個人主義の火を不満を煽りたり。トルストイの紹介によりて国家の否定、租税の拒絶、徴兵の峻拒は地雷火の如く忠君愛国の地下に埋められた理。虚無党員のゴーリキーツルゲーネフの断片的翻訳は大砲の如く空を放つて飛べり。更にクロポトキンバクーニン等の無政府主義者の爆裂弾は続々と輸入せられんとす。豈恐れざる可けん哉」。これは、なにか非常に観念的な思想家が綴った煩悶の言葉として読めます。何にたいして侵略を受けていると北一輝が感じているのかはっきりと読み取れません。大逆事件を予言したともいわれています。とにかく反権威主義的右翼たちから問題提起された復興「日本精神の形」は、それほど平坦でも紋切り型でもないような、寧ろある詩的な饒舌さを以て語ることになるのではないかということを予感させます。▼だが北一輝とはだれか?法華経を読む魔王である。その男は何ができるのか?わからない。多分無だろう。何を望んだのか?ずべてだ。と、2・26事件の北一輝を描いた映画は彼の神秘性・カリスマ性を強調しました。しかし映画で描かれていたのとは違って、北一輝は現場から考える思想家でした。小田実が震災地の現場から考えたと同じ意味で、現場の思想家でした。上海で辛亥革命の意味を考えたのです。北一輝は元々は、彼なりに理解した民主革命としての明治維新を評価しました。彼は「教育勅語」と「万世一系」の国体論を痛烈に批判し(彼独自の)天皇機関説をとりました。この点については、明治維新以来天皇を道具的に利用していた元老が次々と死んでいった後の大正時代に北一輝天皇に対する批判が意味を持ち始めたといえるかもしれません。大正天皇は、在位期間が長い明治天皇昭和天皇と比べて、偉大でない天皇というイメージがありますが、これとは正反対に、(国家主義者の山形有明は1922年まで生きますが)、天皇の干渉されることのない権力は、この大正天皇を契機に、初めて露骨に全面的に現れることになったという可能性も考えられます。昭和の陸軍統制派の全体主義へと発展していく、大正の関東大震災のときに大杉栄を殺戮した甘粕的なあれほどの権威主義は、たしかに大正天皇の時代に起きたのですからね。▼関東大震災の後に語る復興「日本精神の形」は、期待はずれにも、滑稽なほど平坦で紋切り型の単調な思想です。しかしそこから言葉に言い表せない絶望の深さと圧倒的な無力感が伝わるようになりました。北一輝は「朝日平吾の霊前への書簡」(大正14年)を書き、かれのテロリズムを自分の身を殺して大衆を救うという「一殺多性」、すなわち我が身を滅ぼして多くの衆生を救うという思想にしていきましたが、しかし思想として「一殺多性」をとらえると、マッチョ主義の凡庸な民衆論と大正にありがちな大衆論の混合の類でしかありません。▼北一輝は獄中で読んでいた法華経に、息子の大輝にあてた遺言を書いています。この大輝は、孫文や黄興とならび、辛亥革命の中核をになった人物の孫であり、英生であり、かれを養子にしたのです。父親は中国革命のさなかに銃殺され母親は長崎で病で死んでいました。「大輝ヨ、此ノ経典ハ汝ノ知ル如ク、父ノ刑死スル迄読誦セル者ナリ。汝ノ生ルルト符節ヲ合子スル如ク突然トシテ父ハ霊魂ヲ見神仏ヲ見此ノ法華経ヲ誦持スル二至レルナリ・即チ汝ノ生ルルトヨリ父ノ臨終マデ読誦セラレタル至重至尊ノ経典ナリ。父ハ只此ノ法華経ヲノミ汝二残ス。父ノ想ヒ出サルル時、父ノ恋シキ時、汝ノ行路二於テ悲シキ時、迷へル時、恨ミ怒リ悩ム時、又楽シキ嬉シキ時、此ノ経典ヲ前二シテ南無妙法蓮華経ト唱へ念セヨ。然ラバ神霊ノ父、直チ二汝ノ為二諸神諸仏二祈願シテ、汝ノ求ムル所ヲ満足セシムベシ」。もしこれが思想家の思想ならば、芝居じみた遺書の言葉からはなにか新しいことが言われているわけではありません。が、北一輝の自分が生きたままでは衆生を救いことができないという絶望感を読み取れます。まだ言論の自由があるのにこんなに政治の暴走を止められない現在が、治安維持法国家総動員法もあった1930年代ならば、誰も何も喋ることができないでしょうから、北一輝が遺書の形式を通じてなお語った執念ー黙ってたまるかという反抗心ーは本当に驚嘆です。少なくともここに記されている苛まれているアジアの人々に対する深い共感は、愚かにも統制派の役割に意識的な国家主義者・安倍晋三のアジアに対する冷たい無関心とは全く異なる性質のものです。ただし結局北一輝は思想家としてアジアの問題を思想的に語ることに失敗してしまったのではないでしょうか。と、これがいまのところの私の結論です。