和辻哲郎を読む ー 「人間の学としての倫理学」

月に一回の「論語塾」で「童子問」を読むとき、これが本当に300年前に書かれた思想なのかと感嘆を禁じ得ない。思想史の視野からみると、朱子学という世界思想に挑む伊藤仁斎の、かくも深く考え抜いた日本思想は、18世紀でピークを迎え、それ以降は量の拡大はあるが質は衰退の一途ではなかっただろうか。漢字を受容して1000年を要したということかー思考するために。それにたいして西欧語翻訳言語の受容からまだ百年二百年しかたっていないので、前の時代の昔の人と比べてよく考えているつもりで実は考えることすら始まっていないかもしれないかもしれない。中々疑われない。近代化の百年の圧縮の中で、ヨーロッパではルネサンス以降五百年かかって、(書記言語の古典語の文法性に規定された)話し言葉で考えた民主主義の意味が、時には正反対の全体主義の意味になったり、時には逆のこと、全体主義を民主主義といったりすることが起きるから本当に厄介なのだ。このことは、日本近代に限らず、東アジア近代が直面している問題だろうとかんがえられる。
▼さて、ヨーロッパとの同時代性を意識するほどになった大正時代に、し...かし東洋と西欧の間の非連続性を知りながら、この壁をスマートに超える役割をになったのが、ほかならない、和辻哲郎である。だが、「倫理という言葉はシナ人が作って我々に伝えたものであり、そうしてその言葉としての活力は我々の間に依然として生き残っているのである」(「人間の学としての倫理学」)と、和辻が物語るようには、漢語「倫理」は昭和の時代に至るまでずっと活力をもって生き続けてきた言葉かは本当は疑わしいのである。
▼和辻の「倫理学」とは「倫理とは何であるか」というメタ的問いを含んでいると指摘した子安宣邦氏は解説する。
「明治後期から大正にかけて、和辻における学問の形成過程に存在していたのは「倫理(エシックス)」であり「倫理(りんり)」であるという両義的な漢語「倫理」であったのである。ちなみにこの「倫理」の語がもつ両義性は現在でも変わっていない。では和辻がした「倫理」という言葉をめぐる解釈学とは何であったのか。「倫」とは「仲間」であり、したがって「倫理」とは人間という共同存在(人倫)をあらしめる理法であるという和辻の理解は、語義の解釈学であっても、ディルタイのいう歴史解釈学ではない。だが和辻は「倫理」という言葉の歴史解釈学をあえて装う。それは「倫理(エシックス)」に対する「倫理(りんり)」概念の再構成を、東洋の歴史的な人間の生の地盤からなそうとしたからである。「倫理」概念の再構成とは「倫理学」の再構成である。かれが「倫理(エシックス)」に対して再構成しようとする「倫理学」とは「倫理とは何であるか」を本質的な問いとする学であるのだ」(日本倫理学の方法論的序章より)」
アリストテレスからマルクスにいたる西洋哲学の人間観と方法を十分に咀嚼した上で、人倫の体系としての倫理学という独自の筋道を提示、日本倫理学に革新をもたらしたといわれる昭和(1934年)の和辻を、ここであえて大正から捉えたらどうなるか?和辻「日本精神史研究」(1926)は、津田左右吉「神代史の研究」(1924)の2年後に、また関東大震災後に起きた大杉栄が殺戮された年の3年後に、出版されている。和辻は、津田の文献学的方法の脱神話の方向に対抗するが如く、あたかも国民が古代日本文化の作者となるような偶像の再興をいうようだ。はっきり断定できないが、だが和辻は国民のリアリズムに対する神話的想像力を昭和に入ってからも訴えつづけることになかったようにみえる。和辻は「場所」についてこう語る。「「我々は前に人間という言葉の本来の意義が「よのなか」「世間」であるということを指摘した。その「世」とは何であり、「中」「間」とは何であるか。」「世間と訳された原語lokaは、本来「還流」の意味よりも「場所」の意味を持ったものである。まず初次的には「見ゆる世界」としての世界を意味し、次いで一般に天地万物の場所・領域の意となり、時には宇宙の意にも用いられる。かかる世界や物質は、ただ物質的なるのみならず、非物質的なるものの世界や場所でもあり得るゆえに、「客体的なる物がおいてある場所」として限定された「空間」という意味は、lokaの意と相覆うものではない」
ここで和辻は「人間の学としての倫理学」をいわば「場所としての倫理学」としてかんがえているが、和辻はここに<外部としての倫理学>を提示しようとしてはいなかっただろうか。
▼和辻が人間に外部の場所を読みだすと、場所を新しく時間の側から内部的に対抗的に再構成する必要が哲学的に出てきた。内部としての場所、それが西田幾多郎の思弁的な仕事ではなかったか。はっきりしないが、西田の言うことをそのまま読むしかない。西田は、我々が物事を考えるとき「之を映すがごとき場所」あるいは「意識の野においての自己」があるという。意識の根底には「一般的なもの」があり判断であれ意志であれ一般的なものであり、孤立したものではない。意識は時間発展化していく、そうした時間・場所もまた固定した「有」ではないという意味で「無の場所」である。西田は、和辻の外部の場所に対抗して、40人以上の宗教家をよびだして、外部との関係を抜きにした内部の思考はあり得ないというような、場所の意味が哲学的に新しく言われることになった。だが考えてみると非常に危うく難しい再構成とおもわれる。昭和に論じられた皇室「絶対無」論 (1938年「日本文化の問題」)のなかで「皇室はどこまでも無の有であり、矛盾的自己同一であった」という。ここには、和辻がかれのライバルであった津田左右吉にたいする思想的緊張がない。太平洋戦争末期に書かれた「場所的論理と宗教的世界観」では「絶対矛盾的自己同一の世界」がいわれることになったが、そこに、「自己自身のなかに真の世界性を含まない民族主義は侵略であり、帝国主義だ」というかれの抗議のメッセージを読み取ることは容易にできそうにもない。