「哲学の起源」の柄谷行人は言います。「キュ二コス派(犬儒派)の抵抗が有効だったのは、まだポリスが栄えた時代の名残があった時期だった。帝国の支配の下でポリスがいっそう無力化すると、プラトン派もキュニコス派も共に無力となった。その後、キュニコス派を受け継ぐ形で、エピクロスやストア派のゼノンがあらわれた。かれらはもはやキュニコス派のように挑戦的ではなかった。彼らは、ギリシャのポリスが帝国の中の行政単位と化したのちの社会で、「無感動」によって生きることを目指す個人主義的な哲学をもたらしたのである。」。たしかに社会的背景は柄谷の指摘する通りだとしても、ほんとうにポスト・キュ二コス派のエピクロスやストア派が本当にそれほど「挑戦的ではなかった」のか?今日のわれわれが気がつかないだけではないのですか?エピクロスがはじめて庭で学校を作ったこと(それまでは建物の中に学校があった)、そこで女性たちや奴隷たちも哲学の権利を持っているとして受け入れたことはすごいこととは思いませんか?ここでラカンの言葉が思い出されます。
「今日、精神主義(プシシズム)しか意味しないであろうこの看板によって、豚の名で侮辱されていたからには、エピキュリアンたちは、守らなければならないなにかとても大切なもの、ストア学派の人たちよりも秘密なものをもっていたに違いありません。(ラカン)
Il fallait qu'ils eussent quelque chose de bien précieux à an abriter, de plus secret même que les stoïciens, pour de cette enseigne qui ne voudrait dire maintenant que psychisme, se faire injurier du nom pourceaux (Lacan)