ソクラテス、アルキビアデス、ディオゲネス

「哲学の起源」の柄谷行人は言います。「キュ二コス派(犬儒派)の抵抗が有効だったのは、まだポリスが栄えた時代の名残があった時期だった。帝国の支配の下でポリスがいっそう無力化すると、プラトン派もキュニコス派も共に無力となった。その後、キュニコス派を受け継ぐ形で、エピクロスストア派のゼノンがあらわれた。かれらはもはやキュニコス派のように挑戦的ではなかった。彼らは、ギリシャのポリスが帝国の中の行政単位と化したのちの社会で、「無感動」によって生きることを目指す個人主義的な哲学をもたらしたのである。」。たしかに社会的背景は柄谷の指摘する通りだとしても、ほんとうにポスト・キュ二コス派のエピクロスストア派が本当にそれほど「挑戦的ではなかった」のか?今日のわれわれが気がつかないだけではないのですか?エピクロスがはじめて庭で学校を作ったこと(それまでは建物の中に学校があった)、そこで女性たちや奴隷たちも哲学の権利を持っているとして受け入れたことはすごいこととは思いませんか?ここでラカンの言葉が思い出されます。
「今日、精神主義(プシシズム)しか意味しないであろうこの看板によって、豚の名で侮辱されていたからには、エピキュリアンたちは、守らなければならないなにかとても大切なもの、ストア学派の人たちよりも秘密なものをもっていたに違いありません。(ラカン)
Il fallait qu'ils eussent quelque chose de bien précieux à an abriter, de plus secret même que les stoïciens, pour de cette enseigne qui ne voudrait dire maintenant que psychisme, se faire injurier du nom pourceaux (Lacan)

 

読み方によっては、真面目なプラトンが語り伝えた真面目なソクラテスほど退屈な人物はいないのですが、弟子たちに面白いのがいます。小田実はアルキビアデスについてこう語っていました。「われわれはすぐ、国家、国家と優先するけど、市民を殺す国家なんて捨てていい、向こうへ寝返ってかまへんとアルキビアデスはいうわけです。私はそうやって国家と市民は平等だと思って生きているけど、皆さんも、そうやって生きてくださいよ」。▼それからソクラテスの弟子の弟子にディオゲネスがいました。かれは、どこの市民かと問われて、「世界市民(コスモポリタンの市民)だ」と答えたといわれます。(ジョイスのブルームみたいですな)。かれが属していたキュ二コス派(犬儒派)は、ギリシャの全ポリスがアレクサンドロスの帝国の下に従属しはじめた時期に人気を博しました。アレクサンドロス大王がこのディオゲネスの前に立って、何なりと望むものを申してみよ、といったとき、かれは、どうか私の前に立って日差しを遮らないで欲しいといったといわれます。▼こういう弟子たちからソクラテス...がどういう考えをもっていたのかを教えてくれるのが「哲学の起源」の柄谷行人。「ソクラテスは、民会や法廷で活躍し権力を得るということを、価値とはみなさなかった。彼が教えるのは、公人として活動するための技術ではなく、むしろ、それを断念させてしまうような考えである。「青年を堕落させる」とは、むしろそのことである。」「ソクラテスがもたらしたのは、公人であることと私人であることの価値転倒である。それは先ず、私人であることを公的=政治的なものに優越させることである。キュニコス派と呼ばれたソクラテスの弟子たちは、このようんさ価値転換を遂行した」。▼なるほど論理的にかんがえぬかれていますが、しかしですね、公人であることを諦めている知識人たちにとっては私の領域しかありません。公的=政治的なものを批判していく、私の領域に依拠するこそが宇宙の中心にあると考えることが本当の意味の価値転換なのですよ。これを論じているところでは、柄谷は最初から現代の視点から語っているようですが、かれがいう「公人であることと私人であることの価値転倒」が、帝国のもとでの同化主義のことを語ってしまっていることにきがつかないようです。