今年はいつ「全体主義の起源」を読むのか?

今年はいつ「全体主義の起源」を読むのか?

日本会議の戦前そのものを再生するという主張は他に例がない。ネオナチは多くの場合では、自国の労働者の雇用拡大を掲げて外国人労働者の排斥を訴えるなど、就職問題に絡んだ活動で参画者を募っている。さらに左右を問わず独裁者に一方的な好意を寄せる傾向があるなど、ナチズムの復興を目指すというより、反社会性のシンボルとしてナチズムが掲げられている状況である。ネオナチは戦前そのものを再生するとは主張していないようだ。▼1997年5月30日に「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」とが統合して組織された日本会議は戦前そのものを再生したいとする。それが活発になるのは、「新しい歴史教科書をつくる会」(1996年に結成された日本の社会運動団体)によってではないか。(中には、スターリニズムから国体論に転向した代表者もいるがこれほど嫌なものはないね)。▼成田龍一の分析によると、大衆社会が成立する「大正」を読むとき、そのはじめを「日比谷公園焼き討ち事件」に、その終わりを「満州事変」に再分節化することが大切になるという。▼と、そのように大正を再定義するとき、統制としての治安維持法と一体であった普通選挙法は本当にそれほど<市民的>デモクラシーであったといえるのか?丸山真男は、昭和の全体主義は大正が生み出していくことを見逃したか、隠ぺいしたのではないか?Hannah Arendt によると、不特定多数の民衆集団が政治を動かしえるほどの大衆が、都市に流れてくる労働者とともに、<大衆的>デモクラシーとしての全体主義を形作るという。▼安倍の'美しい日本'などという国民国家的最終解決(!)の20世紀の反復は起きないとおもうのは、21世紀のグローバルな状況で東アジアの民主主義と連帯していく可能性があるとおもうからである。台湾の選挙とか東アジアの民主主義にたいする関心が低すぎるよなー