柄谷行人「探求1」を読む

1985年から「群像」に連載していた評論のうち、最初の一年半分を収録したという。柄谷行人の「他者はない」といきなり切りつけてくるような評論の言葉は毎回、なんというか、'事件性'とよぶようなものすごい衝撃波があった。「探求1」の86年が、最後だったのかもしれない。なぜそうなってしまったかはちゃんとかれが書いている。作家が新聞の書評欄を牛耳って他者を入れない形で言論を支配してしまうは日本だけだろうね。フェアーじゃないよ。今日に至るまで野心だけが書いている...

フッサール現象学を批判し、思考主体から「存在」へと転回したハイデガーにおいても、他者はない。彼は「共同存在」ということで、フッサール他我問題を解消するつもりであった。しかし、どちらにおいても、他者の問題ははじめから消去されていたのである。それは、かれらが、私と他者が基本的に対称的な関係にあるという前提から出発したからである。別の言葉でいえば、交換=コミュニケーションがはらむ問題を無視したのである。」(第一章 他者とはなにか)
「教える」立場ということによってわれわれが示唆する態度変更は、簡単にいえば、共通の原語ゲーム(共同体)のなかから出発するのではなく、それを前提しえないような、場所に立つことである。そこでは、われわれは他者に出会う。他者は、私と同質ではなく、したがってまた私と敵対するもうひとつの自己意識などではない。むろんこの場所は、われわれの方法的懐疑によってのみ見い出されるものである。」(第一章 他者とはなにか)