「教育勅語」の国体イデオロギーが教科書に直に記述されていくのはいつからか?

現在、安倍晋三の思想の背景である「日本会議」と「新しい歴史教科書をつくる会」は、戦前の形の復活を主張している。その根底に「教育勅語」的な国体がある。だがいきなり「教育勅語」が言われ始めたのではなかった。田中角栄は官僚出身の福田武夫と比べていかにも庶民的なイメージだったが、元号法の福田武夫と同じように「教育勅語」の復活をはじめて公に言った反動思想の政治家だったといえる。▼「教育勅語」とは何か?「国体」とは何か?まず、戦前、教科書に対する国家統制は、自由民権運動の高揚と、それに対抗するような教育政策の反動化、という形で進行した。教科書疑獄事件が発生したときに、国はそれを機会に、教科書を「国定制」に切り替えた(1903年~1945年)。ここから「教育勅語」の国体イデオロギーが教科書に直に記述されていく。「かくて我らは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」(臣民の道)。▼皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立したと語り起こし、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが「国体の精華」であり、教育の起源な...のであると規定する、洗脳マシーンが作動するーおまえは我ら国民かそれとも非国民か!?、1、0、1、0・・・・。▼この社会主義者の本は読みにくいが、人間の精神的的自立を破壊する元凶が、万世一系の国体をたたえる「教育勅語」にあるということをズバリ見抜いていたのが北一輝だった。「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。▼アヘン戦争を契機にヨーロッパ帝国主義が押し寄せた19世紀、東アジアの国々はいかに近代国家として自立していくかという課題に直面したが、シュミットがいうような意味の中性国家ではあり得なかったきと、日本の場合は、植民地化を避けるために、結集力をもった国民国家すなわち祭祀国家の形成に向かうことの必要性がいわれた。しかし帝国日本になった大正時代に天皇制国家の問題が出てきたときに、日本は天皇制国家をやめるべきだった。だが日本は総力戦をたたかいぬくような国家に向かってしまったのである。ここに決定的な間違いがあった。国体の言説は、この間違いを間違いとして認識させることを妨げて全体主義の戦争を推進させたのである。(もちろん、歴史修正主義者たちが隠ぺいするが、日清・日露戦争は侵略戦争である)▼日本ファシズムに始まりはなかったと丸山真男は言う。「内なる天皇」という我々の責任に還元されてしまう。しかしそれは満州事変から始まったのである。丸山はだれがそれを始めたかわからないという。しかし昭和ファシズムを始めた人間たちがいたのである。
▼国体については、幕末の後期水戸学の会沢正志斎、自由民権運動から天賦人権説を非難した加藤弘之から発言されるが、昭和に入ると非常に流行し広まった。天皇機関説を反故にした憲法学者上杉慎吉は「天皇ノ主権者タルコトハ我ガ日本ノ国体ニシテ、人民ガ主権タルハアメリカ合衆国ノ国体ナリ」 と述べている。文部省起草「国体の本義」起草にも関わったとされる山田孝雄は1910年「大日本国体概論」を出版した。1921年に内務省神社局は『国体論史』を通じて身体論的国家観を提示した。1925年公布の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社を禁止した。立憲政友会の鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」と宣言した。文部省は国民精神文化研究所を「我が国体、国民精神の原理を闡明にし、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くる」ために設置した。