柄谷行人「言葉と悲劇」(1989)を読む

柄谷行人「言葉と悲劇」(1989)を読む

 荻生徂徠の(1666-1728)の登場は、徳川日本の思想史上のひとつの「事件」(子安宣邦「事件としての徂徠学」)とされます。それは、それまでの日本の儒教を内側から壊す役割を担ったからです。そしてこの徂徠が影響を受けた、伊藤仁斎(1627-1705)こそは、それまで天皇・貴族・寺社が独占していた学問を民衆に広め朱子学脱構築し、東アジアの知識革命をもたらしました。▼さて丸山真男は根本的な戦後的価値の出発のために近世儒教の思想を読む必要をかんがえました。その着眼点は正しかったのですが、読み方に問題がありました。カール・シュミットのいう中性国家Ein neutraler Staatとは、 丸山真男の解説によると、「真理とか道徳とかの内容的価値に関しては中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)又は個人の良心に委ね、国家主権の基礎はかかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いてある」といいますが、丸山はこのカール・シュミットの中性国家をそのまま、荻生徂徠 (近代国家を知らなかったし日本人という認識もなかった儒者)に適用してしまうのです。▼子安宣邦氏が指摘するように、徂徠が書いていないことを勝手に読み出し、そこに恐らく福沢諭吉の思想を書いていくことになりました。江戸思想における多様な学問の展開をみながら、しかし丸山にとっては、自己の言説の正しさを担保するためには、呼びだした荻生徂徠が存在しなかった思想家として消去されました。そしてもっとも重要な位置を占めた伊藤仁斎は非常に存在感のない思想家とされてしまいます。東アジアの知識革命も民主主義のことも。

▼89年の「言葉と悲劇」で柄谷行人はこの丸山の認識を正したうえで、キルケゴールを仁斎に適用できることを語っています。やや得意げにかれはいいます。「丸山真男は、仁斎をカント的、徂徠をヘーゲル的だと類推的に考えていますが、その意味では僕は、仁斎はキルケゴール的、徂徠はマルクス的、宣長ニーチェ的だと思います」。仁斎とキルケゴールとの対応がいかに導かれた結果かはわかりませんが、丸山の知に荻生徂徠という他者が存在しなかったように、柄谷の知に伊藤仁斎という他者が存在することがないのではないかと疑わせるものがありますね。▼冒頭で述べたように、伊藤仁斎荻生徂徠の知的ラジカリズムは、テクストの解釈的内部化を拒否したことに存しました。かれらの思想は徳川日本という言説空間の存在を否応なく意識させるものです。丸山の問題点は、明治日本から徳川日本を包摂してしまう内部にからみとられた構築の仕方です。それは自己同一の言説にほかなりません。同様に、柄谷の問題点も、かれは自らを'脱構築的'といっていますが、後期近代の昭和日本から徳川日本を包摂してしまうような自己同一的内部化に存します。▼丸山と(丸山を批判する)柄谷には、<江戸>の発見も再発見もありません。かれらはただ<昭和>を語ることを反復しているだけだという印象をもちます。(これと同様に、柄谷の「世界宗教」についての語りも単一の普遍主義のことを反復しているだけのようにみえます。) 現在われわれは、昭和の戦後民主主義から大正を読むのではなく、逆の方向から、大正から昭和の戦後民主主義を読んでいますが、この作業のもつ意味とは、江戸から昭和の戦後民主主義をとらえなおしそれを相対化するという意味なのです。大正を読むこと・書くこと、江戸を読むこと・書くことを通して、近代を中心とした一つの「日本」に多数の穴を開けていく言説的な取り組みから、多様性としての普遍主義を発見・再発見することになるのではないだろうか、と、私はやっと気が付くことになりました。