明治の漱石をあえて大正から読む

明治の漱石をあえて大正から読む

夏目漱石といえば、いかにも明治の作家のイメージがある。だが、元々新聞小説であった『明暗』は、河上筆『貧乏物語』と同じ年(1916)に出版されたのであった。漱石の最後の作品は、西田幾多郎善の研究』の5年後に、大正期にあらわれたのである。古井由吉の言うとおりに表面的なことをたどっていくとこんなものは読んでいられないと苛立ってしまう。この苛立ちはどこからくるかと考えてみる。と、それはリアリズムが描く没落した中流のどうでもいい運命を読まされるのかという苛立ちではないか。言い換えると、大正から漱石を読むことの苛立ちかもしれない。だが古井が明治の側から再びとらえた漱石は、則天去私の漢詩の世界に、解決を見出すことはなかったという。西田に即していいなおせば、このときの漱石は、「自己を映す鏡」(西田)のなかに、それほど「統一的或者」(西田)を見出すことはなかったということだろうか。だがそこから古井は読者に、「ところどころで漱石の意志、意欲」をみよという。だが、「意志」「意欲」のことを言えばなにかの説明しているつもりになっているのが...なんともやりきれない。たしかに漱石に、「自分がなくなってしまうような気持ちにさえなりかける、何とか自分を取り戻さなければ、どこへ持っていかれるかしれない」という危機感はあったことはたしかだろう。(だが作家ならば特別なことではない)。しかし古井は漱石を日本語のなかにあまりに心情的に包摂してしまう。このノスタルジーにたいして、大逆事件(1910)という事件が夏目漱石に与えたであろう畏怖感のことをわたしはどうしてもかんがえてしまう。天と地の間を闊歩する自由な精神、則天去私の可能性の中心は、国家において、絶望的に消滅させられたのだ。そしてあらゆる可能性が消滅しきったところに、「ところどころで漱石の意志、意欲」と古井がいうようには・・・。ここまで書き方の中からその内部に即して漱石を語るのは、喪失感のなかでファシズム的に語られるイデオロギーの語り口を避けたいからだろうが、「日本語の再生のために」(古井)といわれるような再生はイデオロギーそのものである。一つの日本語の再生は意味がないから、漱石は自らの書く行為を近代語と漢文の間に置いたのではなかったのか?

 

漱石の作品をとおして読み比べてみると、『明暗』は最も無理をしている小説だということが見える。『明暗』以前の小説は、主人公、あるいは他の登場人物にしても、漱石が選んだのは、自身がかなり自己投影をできる、そういう人物たちです。ところが、『明暗』は、主人公の津田由雄、その細君、妹、それからどこぞのマダム、これらの人びとに、漱石は違和感を覚えながら書いていると思います。時は大正の初めです。そのとき三十歳であった人間、あるいはそれを囲む人間たちは、漱石とは世代が隔たっている。いわば、大正の人です。大正期に人となった人です。永井荷風の『濹東綺譚』の「作後贅言」にも、大正の人間たいして、明治の人間の違和感が述べられている。『明暗』では、それほど隔たった人間を、あえて主人公にsぎた。・・・吉川幸次郎氏の注釈の中でも引用されていましたが、昼間は『明暗』を書き、大いに「俗了」される、と漱石は言っている。書いているうちに、自分がなくなってしまうような気持ちにさえなりかける、何とか自分を取り戻さなければ、どこへ持っていかれるかしれない、そんな気持ちが強かったのでゃないでしょうか。たしかに、他の作品を書いている時、これほど続けざまに漢詩を描いたことはありません。その意味でも、『明暗』と漢詩との関係は深いのだと思います。しかし、その関係を両方から説明しようとしても、これは無理でしょう。『明暗』は、漢詩と同じようにあまり深読みしないこと、いかめしく読まないこと、むしろ表面的なことをたどっていくと、かえって漱石の真意が伝わてくるのではないか。ただ、ところどころで漱石の意志、意欲がかすれるところがあります」(古井由吉)