柄谷行人「探求2」(1989)を読む

柄谷行人「探求2」(1989)を読む

1989年という年は、世界史の教科書が証言しているように、「テレビや新聞などのマスメディアでは世界各地の政治・経済・社会・文化のニュースが毎日報道されています。ソ連・東欧の社会主義圏が消滅した後、市場経済が世界を席巻しましたが、21世紀初頭にはアメリカに端を発する世界金融恐慌が発生して、アメリカ一極主義は破たんをみせ」ました。▼この年はニューヨークに始めて旅した年。旅の途中、父が心臓の病で入院してしまったので東京に戻って病院に見舞いにいきました。だが個室にいた父からきくと話といえば、資本主義でもなければ社会主義でもない戦後日本のあり方をいう自慢話です。毎回これをきくと、親不孝者の私の頭の中ではその戦後の復興日本が国家総動員法の国家と重なり合います。和辻を愛する大正教養主義的「一高」出身の元大蔵官僚の、しかし青春時代に国家総動員法の国体イデオロギーに共感したとはいえないが、だが共感しなかったともいえないようなんだかよくわからん妄言の言葉とおもってしまうのが常ですが、とにかくそういう議論は死の重い空気に席巻された...1930年代の中心的話題を占めたから記憶が語らせるのでしょう。▼資本主義の純粋理念型みたいな数えられる無限 countably infiniteと、社会主義の純粋理念型みたいな数えられない無限 uncountable infinite の間に、他の無限があるのか?他の無限が存在しないとはいえないしまた存在するともいえない。と、結局思考を偶然的に委ねることになるような思考のゲームでも、京都学派のイデオローグたちはこれを世界史の問題として真剣にかんがえたのです。生命のごとき他の無限としての無の場所として、帝国日本を理念的に構成しようとしました。▼西田幾多郎の「場所の論理」に対抗した「種の論理」で田辺元は、西田の「即非の論理」に対して「媒介の論理」を対置したといいます。西田の場合は、個物の相互限定がそのまま無の自己限定になってしまっていて、個と一般の媒介を欠くアナーキズムにみえたかもしれない。もうしそうならば、田辺の「媒介の論理」は国家の構造に対応するものとして理解できるでしょうね。わかりやすくいうと、'古代世界'との媒介によって復興していく国家というか、そういう構造をかんがえた。しかし京都学派の中には、「歎異抄」を読んだ三木清のような、末法の世において死に切った絶対の過去を愛することの意義(したがって'古代世界'との連続性を断ち切った)を書いた、反時代的精神もあったのです。古代世界でいわれるなにかは存在したことは否定しませんが、それは「日本書記」「古事記」の古代国家の成立するまえに消滅してしまった可能性もあるでしょう。そうなにもかも現代に都合よく連続してくるものではないと考えますが。
▼さて柄谷行人の「探求2」では、いわば他者の現象学から他者の論理学への転回をなしたといわれますが、その転回を行うのが単独性と国有名についての探求でした。恐らくそうではないだろうかと勝手に考えることなのだけれど、柄谷の課題は、単独性と国有名についての探求を通して、フランス革命後の世界史の展開を総括していくような概念をつくること、アナーキズム (西田の「場所の論理」)と国家 (「媒介の論理」を乗り越えていくような概念をつくることにあったのではないでしょうか。「探求2」の柄谷において、単独性でいわれるものは、一般性の中で見られた特殊性ではないし、類の中に見られた個でもない。それは一般性ー特殊性(類ー個)という回路の外にある。しかも、単独性は、パラドクシカルに普遍性あるいは社会性につながっている、と説明されました。▼ここで単独性はいかに固有名とかかわるのか?西田的なナイーブな口調でしかも文学擁護の印象を与えるような特権的な含みをともなって説明されます。「単独性の問題は、個体が「何であるか」ということは無関係なのだ。・・・あるテクストを構造やインターテクスチュアルな織物としてではなく、単独性においてみるとき「漱石のテクスト」と呼ぶだろう。その限りで、われわれは「歴史性」と出会う。それは「漱石」という個人や、漱石という「作家」とは関係がないし、その歴史とも関係がない。科学としての批評は、このような固有名を消そうと試みる。しかし、それは、固有名を記述によって翻訳してしまうことである。もちろん、そうしてはならないというということではない。むしろ、そうすることによってのみ、われわれは逆説的に出会うのだから。」。▼だが柄谷がこう語るとき彼は田辺に近づくようにみえるのですね。柄谷は田辺に代わって喋っているようにすら錯覚してしまうほどです。「すなわち、固有名が個体を指示するのではなく、固有名を媒介にしてわれわれが個体を指示するのである。」。このときすでに、国家の構造としての媒介の論理ではなく、帝国の構造としての媒介の論理が言及されていたとしたら、 柄谷の思考世界の原理主義性の凄さに圧倒されてしまうといわざるをえません。1989年の時点で、「一冊で世界史の全体像を把握できる書物」、すなわち「世界史の構造」の構想が出来上がっていたのだろうか?▼だが、1989年の「探求1」で柄谷の書くたびに事件性を放ったラジカリズムが最後だったとおもうのは、柄谷が、'古代世界'から始める日本世界史、始まりとして古代世界を置くだけでなくその始まりに起源を読み出していく19世紀的ヘーゲルの同一的反復の言説に絡み取られていくことになったからです。そういう'古代世界'は、近代国家の民族主義が自分たちの起源を正当化するために語ってみせた'古代世界'でしかありませんが、この置き換えは帝国という語彙によっては隠ぺいできそうにはありませんね。