ポストモダンのモダン化という言説のはじまりはいつだったのか?ー 磯崎新と柄谷行人を読む

ポストモダンのモダン化という言説のはじまりはいつだったのか?
磯崎新柄谷行人を読む

ポストモダンのモダン化という奇妙な思想ブームは世界的傾向です。そこに、日本の言説も絡み取られておりますけれど、それがいつからはじまるのか?初めを定めるためには、順番として、ポストモダンの言説がいつ終わったのかという問題があります。残念ながらはっきりしたことはわかりませんが、ただ1989年の磯崎新の文をよむかぎり、まだこれはポストモダンの言説だということは明らかです。かれはこう言います。「むしろ今日のたとえばポスト・モダンといわれている状況のなかで、さまざまな建築やデザインのプロジェクトを見ていて共通していることは、そういう固定化された様式に対する反対、反発であり、またそれをむしろ意図的に分解して、解体していくことですね。そうすると、当然そのなかには反動的な姿勢のものもあるわけで、古いものを回復させようという、そういう動きも出てくる。しかし、その伝統さえもじつは廃墟の一部分であると見なければいけない、そういうふうな時代になっているのではないかと思うのです。」。...ポストモダンの磯崎はもはや蘇らない死に切った偉大な過去についての認識を持っています。そういう不可能の痕跡が建築であると言っているように読めます。
これにたいして、注目したいのは、1992年と1994年に日本で開催され国際シンポジウムです。柄谷行人が1992年の'Anywhere'のときに 、communicatice spaceについて、またこれの二年後の1994年の' Anyway'でOn the 'thing-in-itself'について語っています。内容を読む限り、それは必ずしも磯崎新の方向に沿ったものではありません。19世紀のマルクスが呼び出されます。ここで、柄谷の主張をわかりやすく単純化していってしまうと、磯崎のようには過去を死に切った廃墟とはみなさないこと、そして過去が純粋な理念型として存続しえることを言うものです。これは公に、影響力をもった形で、ポストモダンのモダン化という言説のはじまりをなすものではなかったではないでしょうか。

磯崎新「建築の政治学」(1989)からの引用

「ふつう、この次にはこういう確実な未来がある、それをユートピアとして描き出す。ユートピアの方向に向かってまず前進する。そうするとつぎがあるというように、順々に未来が生まれて描かれ、かつ追跡され、かつ到達されるということだったと思うのですが、しかし、そういう順序で未来が生まれてくるというのが、どうもぼく個人というか、ぼくのジェネレーションにはもう見つからなくなっている。わたしの戦争体験、といっても、単純に少年期に戻るのですが、非常にテンションがかかって日本中が戦争に追われていたさなか、ある日突然敗戦になる。敗戦になった日、これはよく言われることですが、日本中がまっ青な青空で、雲一つないような状態だった。つまりわれわれは、ある瞬間、ありとあらゆる希望とか目標とか一切合切、それまで組み立ててきた一切のものが一瞬に消えた瞬間を体験したのです。その消えた瞬間、目の前にあったのが青空と廃墟でした。
そうすると、青空というのは、ある意味でまったく透明な、かつなにかがあるかもしれない希望的なメタファーとして使われるのですが、むしろわれわれのジェネレーションでは、少なくとも私自身感じたことは、そういうすべての希望が消えた瞬間、つまり手探りでしか先が見えない瞬間、まさに空虚そのものの象徴として青空があったということです。
それに目の前の廃墟、焼跡、瓦礫の山、いうなれば、ありとあらゆるシステム、ありとあらゆる組み立てられた、建築やデザインでいえば様式が、ある瞬間にバラバラに解体されて廃墟になってしまうということを悟らされたのです。これはもう悟りというぐらいにしか言えないのですが・・・そうすると、私自身が未来について、それを明確に定義して、一般の方々に説き明かすなどというのは、たいへん大それたことであり、とてもできないということになる。
じゃどうしたらいいのかというと、私自身もわからないことが多いのですが、少なくとも、そういう状態であるからには、決まった固定したものを確実にここで受け取って、組み立てて、それを堅固なものとして主張しようというようなことはあまりしたくないし、してもしょうがない。
むしろ今日のたとえばポスト・モダンといわれている状況のなかで、さまざまな建築やデザインのプロジェクトを見ていて共通していることは、そういう固定化された様式に対する反対、反発であり、またそれをむしろ意図的に分解して、解体していくことですね。
そうすると、当然そのなかには反動的な姿勢のものもあるわけで、古いものを回復させようという、そういう動きも出てくる。しかし、その伝統さえもじつは廃墟の一部分であると見なければいけない、そういうふうな時代になっているのではないかと思うのです。」