「映像の詩学」(1979)を読む

「映像の詩学」(1979)は、八十年代の思考の置き換えていく知的豊かさと議論の乏しい知的貧しさを告知するような本である。このなかで蓮見重彦は「大衆」というべきところを「映画」と言っているのかもしれない。「映画」を語るとき、それは大衆に見られた「映画」のことを意味する。この「映画」ほど、ウィットゲンシュタインがいう「不変、確固、存在は一つ」というものから遠いものはないだろう。私は映画の知識がないので、蓮見重彦のような映画の大家を語る資格がないと思っている。ただ思想史的に、蓮見重彦を語るだけである。蓮實は、吉本隆明からは、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない、言い換えれば、親鸞がいう「還相」の過程がないという意味で、「知の密教主義者」として「知的スターリニスト」と呼ばれることになった。だが吉本がそれほどかれがいうような「大衆」を持っていたのか、吉本はそれほど大衆を救ったのかという疑問がある。これにたいして蓮見は、吉本が連発するようには容易に「大衆」とは言わない。「映画」の領域に投射された全世界を語る、この修道士は「映画」に於いて自分が救われていると確信しているようだ。だが、同時にそのことで、「映画」に定位している「大衆」をまさか救えっているとは思っていない。思考の柔軟性から、蓮見は、吉本のようには「大衆」を持つことを主張することはない。「大衆」について語りたい。だが「大衆」を見ないふりを演じる。あえて「大衆」が見ている「映画」だけを語る。だがそうすると、蓮見は本当に「映画」を見たことがあるのだろうか?「映画」は「大衆」を持っているのに。蓮見はなにを見たつもりになっているのだろうか?ポストモダンのモダニズム化あるいは帝国論であれ、または市民の抵抗理論であれ、再びマルクス主義的権力論が復活してくる2010年代の今日からみると、1980年代は、60年代後半から比較的直ぐにマルクス主義権力論を捨てた代償として獲得した複数性の視点、外部の視点で成り立つ方法としてのテクストから饒舌に初めて語ることになったが、このときなにかを見たのだろうかという問いが成り立つのではあるまいか。

 

▼「不変、確固、存在は一つである。」(Das Festes, das Bestehende und der Gegenstand sind Eins. Wittgenstein)

▼「演じることは、本来見えてはいない何ものかに幻想的な実在感を付与することであり、しばしばその幻想を実在そのものと錯覚する地点にまで自分を引きずり込む危険をはらんでいるが、その見えていない何ものかになることは、存在の破砕によってしか実現しえないより危険な試みである。つまり、不在なるものの輝きの底に身を埋め、その時ならぬ閃光があおりたてる眩暈への誘惑を全存在をあげてうけいれ、遂にはその沈黙と透明性とを共有することにほかならない。」(蓮見重彦、「勝手にしやがれ」から「気狂いピエロ」へ)