フランスの誘惑を再び読む

渡辺一民市民大学講座「フランスの誘惑」の講義メモ

渡辺一民氏曰く、国を背負う国費留学生の鴎外と漱石と比べてみると、永井の手放しの賛美をみよ

自分は寝台の上から仰向きに天井を眺めて、自分は何故一生巴里にいられないのであらう。何故仏蘭西に生まれなかったのであらうと、自分の運命を憤るよりは果敢なく思ふのであった。自分には巴里で死んだハイネやショーパンなどの身の上が不幸であったとはどうしても思へない。兎に角あの人達は駐まらうと思った芸術の都に生涯滞在し得た芸術家ではないか。自分はバイロンの如く祖国の山河を罵って一度も勇ましく異郷に旅立はしたものの、生活という単純な問題、金銭とい云う俗な煩ひの為に、迷った犬のようにすごすご、おめおめ、旧の古巣に帰って行かねばならぬ。ああ何と云う意気地のない身の上であろう。・・・再び床の上に倒れ・・・然し自分はどうしても日本に帰りたくない。巴里に留まりたいと同じことを考えるのであった。

名誉とか財産というものは、自分の力ではどうにもならないものなのだから無責任で構わない。というか責任をとりようがない。現在進行中の選ぶ民主主義。名誉と財産の如く自分では背負いきれない国家に負い目を感じなければならない。我々は益々自分を知らない破片と化すー喋る民主主義を伴なわなければ





「頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫った根付けの様な顔をして、魂をぬかれた様にぽかんとして、自分を知らない、こせこせした、命の安い、見栄坊な、嘘言つきな、小さく固まって納まり返った、猿の様な、狐の様な、ももんぐわあの顔な、小杜父魚の様な、「麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗の破片(かけら)の様な日本人。」。(高村光太郎) 

 

渡辺一民氏の講座「フランスの誘惑」(第一回)12月4日、配布資料から>


ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し 
せめて新しき背広をきて 
きままなる旅にいでてみん

<実利主義の英米と軍国主義の独に対して、芸術哲学の仏、といのはステレオタイプ。が、萩原の「ふらんす」はこのステレオタイプ以上の意味があった。それは、資本主義的軍国主義形成期の日本が強いる奴隷的な被拘束性からの精神的離脱を意味した>


 

森鴎外など戦前の仏留学生は皆、本人と直接関係がない外的事件(戦争)による帰国を余儀なくされた。例外なく、彼らは、幻想とはいえ日本回帰に囚われた。こうした戦前の留学生と比べると、遠藤周作加藤周一・辻邦夫の戦後仏留学生は、帰国が自由にでき、とくに50年代の留学生達は戦後の荒廃のなかで帰るべき日本という幻想が無かった。それ故に、かえって、個人の視点で生き生きと、ヨーロッパ文化と比較した独自の日本文化を築けたと渡辺一民氏は総括する。この渡辺氏によると、西洋絶賛の代表者が三木清とすれば、アジア(主義)絶賛の代表者は竹内好ということになろうか。そうした西洋絶賛とアジア(主義)絶賛も、1964年ごろに幕を閉じるという。1920年代に誕生した「フランスの誘惑」も、(渡辺氏が帰国する)1963年で消滅するのだという。最後に、現在大学の中心を占めるオタク知識人達は、渡辺氏が帰国した1963年頃に生まれた人々である。いやゆる「フランスの誘惑」が消滅した後の人々である。オタク知識人について質問した。と、渡辺氏は、軍事教練で顔が変形するかと思う程殴打を受けたこと、学園紛争で学生に取り囲まれたこと、この屈曲した体験の数々が決して自分を頭だけで考えるオタクにさせないと語っていた。オタク知識人には興味はないが、現在の子供達にもっと戦争のことについて語り伝えたいと述べた

森鴎外など戦前の仏留学生は皆、本人と直接関係がない外的事件(戦争)による帰国を余儀なくされた。幻想とはいえ日本回帰に囚われた。それと比べると遠藤周作加藤周一・辻邦夫の戦後仏留学生は帰国が自由で、帰るべき日本も無かった。故に個人の視点で独自の日本文化を築けたと渡辺一民氏は総括する

渡辺氏によると、西洋絶賛の代表者が三木清とすれば、アジア(主義)絶賛の代表者は竹内好ということになろうか。そうした西洋絶賛とアジア(主義)絶賛も、1964年ごろに幕を閉じるという。1920年代に誕生した「フランスの誘惑」も、(渡辺氏が帰国する)1963年で消滅するのだという。

現在大学の中心を占めるオタク知識人達は、渡辺氏が帰国した1963年頃に生まれた人々だ。これについて質問した。渡辺氏は、軍事教練で顔が変形するかと思う程殴打を受けたこと、学園紛争で学生に取り囲まれたこと、この屈曲した体験の数々が決して自分を頭だけで考えるオタクにさせないと語っていた