サンダースの主張は、そもそも学校の段階から格差がある限り格差社会はなくならないという認識に支えられています。全面的に賛成した上で、私なりにですが、近代の教育のありかたの問題について根本から考えるところがあります。

アメリカ民主党大統領候補者の一人サンダースは公立大学授業料の無償化を訴えると報じられています。日本は、裕福な家の勉強できる子供と貧困の家の子供とを選別し、学校を階層化するという、大帝国時代に確立した植民地主義的選別の罪深い社会設計を、21世紀になっても終らせることができないのは、本当に時代遅れとおもうのですが、これはネオリべのマーケット主義の時代にはいって現在、エスカレートしているようです。サンダースの主張は、そもそも学校の段階から格差がある限り格差社会はなくならないという認識に支えられています。全面的に賛成した上で、私なりですが、近代の教育のありかたの問題について根本から考えるところがあります。例えば、寺子屋での授業の様子を描いた絵ですけど、最初にみたときは、うん?学級崩壊かなと思いましたが、しかしそうではなくて、注意してみると、女性師範代(女性教師)は子供と「一対一」で教えていることを示していた絵だったのですね。他の子どもたちは師範代の教えの順番待ちで、ワイワイガヤガヤしていたのですね。同時代の京都の「古義堂」の講義も「一対一」で行われたといいます。他方で、高校日本史の教科書の資料で見たのですが幕府で行われた儒学講義の様子をみますとすでに、近代の大学とおなじようにに一人の講師の講義に三十人ぐらいの受講者が相対しています。やはり教育の起源は「監獄の誕生」のフーコが分析した修道院ー軍隊モデの配置にあるというか、近代の知の共有のありかたが問われていたことを思い出しました。21世紀が19世紀と20世紀と決定的に異なる世紀になるとしたら、なにか知の共有化のあり方から、根本的に変わってこないとどうなんだろうかとおもうのですがね。なんといっても、「一対一」というのはラジカルですからね、対角線論法で明らかなようにパラドックスを必然的に導き出します。知から相対的で偶然な逸脱が常に起きますーソクラテスプラトンの対話みたいに。ゴダールの映画で超面白いと感じるのは、「・・・と、マリーは喫茶店に座っていた哲学者と相席して対話するのだった」といういきなり来るアクシデントですね

 

 

File:Terakoya for girls.jpg - Wikimedia Commons