三木清「パスカルにおける人間の研究」(1926)を読む

三木清パスカルにおける人間の研究」(1926)を読む

「しかしながら人間の存在が中間的存在であるということはこの存在が平衡を保っている存在であることを意味しない。人間は中間者であることによっていわば物理的力学的支点に立つ存在であるのではない。むしろ中間的存在であることは人間の「不均衡」を表現する。けだし如何なる極端なるものにも我々は等しくない。我々の両極をなす無限と虚無とは固定されたものではなくて、それはパスカルによればあたかも「深淵」であり、「不思議」である。」

▼「我々の両極をなす無限と虚無」と三木清でいわれるものは、二元論ではありえませんね。むしろ二元諭批判をなすものです。ゴダール「アルファビル」のテーマであるわけですけれど、ユートピア( Utopia理想郷)、デイスポーティア( Dystopia暗黒郷)のどちらにも絡みとられることなく、自立性をもってこの関係をいかにいきるかという問題としてわたしはとらえます。 この問題を現在の文脈から考えてみるとどういうことになるのだろうかと自分のために整理しておきたいと思うのです。...▼80年代の浅田「構造と力」の構造批判の理論的仕事ですね、むしろこれを読んだ後に、偉大な二元論の仕事、レヴィストロース「野生の思考」、山口「文化と両義性」、網野『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(1978)を同時に一生懸命に読みなおしました。また70年代の思想としての人類学的アプローチの意味を考えながら、60年代後半の大江の「個人的体験」も読み直すことにもなりました。ユートピアに規定された思想としての民衆史を根底にもった、こうした二元論の知の冒険が非常に充実していたわけですが、だけれど、21世紀は、ユートピアへのノスタルジーをすてなければやっていけなくなったというおもいです。▼中国・韓国・朝鮮の民族を否定した日本の戦争責任の自覚と真摯な謝罪がないために非常にデリケートな問題に触れることになってしまいますが、だからこれらの問題を取り組むことの重要な意義をみとめたうえで申し上げることですけれど、東アジアの民族主義をいう言説ー今日国策としてのポストコロニアリズムの言説に包摂され始めていますーは、たとえば靖国問題を解決できる知なのだろうかという疑問をもっています。国家日本の侵略を普遍主義的な人類にたいする犯罪の問題として構成しなければ・・・。▼20世紀を統括しますと、大衆にユートピアをみた言説は全体主義に利用されたように、また(さらにその大衆を組織した)階級にユートピアをみた言説はスターリニズムに利用されたように、そして今日再び言われる民衆の存在にユートピアをみる言説は(一国を背景にしたというよりは、90年代から本格的に展開されるグローバルで)歴史修正主義者の民族主義に利用されるデイスポーティアの危険性があるでしょう。現にあちらとこちらとに分断されたところで歴史修正主義者の権威主義の政治への隷属を許すことになっています。私は2001年からの小泉政権のときは海外にいたので靖国参拝小泉時代を経験していないのですが、十数年ぶりに東京に戻ってくると、東アジアの人々が互いに憎悪し合う悲しい現実に驚きました。領土問題は戦争でしか解決されないという歴史から学ぶことなく、日本ナショナリズムを起点として、なにかそれぞれの国がそれぞれの民族のことを言い始めるという憎しみを交換する互酬原理がはたらいてしまっています。▼21世紀の普遍主義の意味はなにだろうか?ただしここで普遍主義といっても、それをそのままみとめたら、植民地主義ユートピアをみた近代の啓蒙主義(ヨーロッパ中心主義)に陥ってしまいます。それを克服するために、思想は多様性としての普遍主義を探求することの意味があるのですが、このことが後期近代における1968年からの思想的課題ではないかとやっと気がついてきましたー68年が消滅しきったかそうでないわかりませんが

 

 

参考

三木清「不安の思想とその超克」(1933)より

「既に数年このかた我が国においても精神的危機が絶えず叫ばれてきたが、その危機の最も内的なもの、いわば最も精神的なもの、従ってまた最も魅惑的であり得るものは、従来なほ一般には真実に経験されていなかったといふことが出来る。」「ヨーロッパにおいてはもちろんかやうな精神的危機は既に以前からその精神的な表現を生産している。・・・・・・ひとはそれらをおしなべて、不安の文学、不安の神学、不安の哲学といふやうに考へることができる。」「日本では昨年あたりではかやうな不安の思想の影響は局部的であった。青年の心を圧倒的に支配したやうに思えたのはマルクス主義であった。至る所きき鮮明であり、どこでも威勢が好かった。とにかく「如何に活動すべきか」が問題であった。・・しかし反動期が順序としてやって来た」「外部に阻まれた青年知識人の心はおのづから内部に引き込まれるだろう。社会的不安は精神的不安となり、しかも「内面化」される。・・・かくの如き危機は単なる文化的危機と直ちに同一視することのできぬ一つの「精神的危機」である。・・・・そしてこの危機は、青年インテリゲンチャにとって魅惑的でなくはないだけに、一層危険でもある)」