プルースト「失われたときをもとめて」を読む

プルースト「失われたときをもとめて」を読む

あえてバイオグラフィーとしての大正 (1912-26)をかんがえると、その生誕は、「失われたときをもとめて」(1913-27)の刊行と殆ど重なります。ジッドはこの小説についていってます。「ある種の書物ーとくにプルーストのものーのおかげで、読者は、初めのうち知らないふりをしていたもの、知らないほうがよいと考えたものに対して、前ほど怖じ気づくこともなく、冷静にこれを考察できるようになった」。それはなんだろうかと気になります。それについてあれこれ考えてしまうのですが、「失われたときをもとめて」の<前>になにが語られていたのか 、そして「失われたときをもとめて」の<後>になにが語られることのなったのかをみることによって、「失われたときをもとめて」においてはじめて語られることになったことについて考えてみようというわけです。「失われたときをもとめて」の<前>は、反ドルフェス派のシャルル・モーラスと、ドルフェス擁護派シャルル・ペギー、この立場を異にする両者は、金に支配されるブルジョア社会への危機観を表明することで、一致をみる、そういう時代でした(シャルル・モーラス)。なんでもかんでもカネがものを言う世の中への批判を通じて言論の自由といった人権がはっきりと意識されるようになった時代。また第一次世界大戦社会主義革命の必然性が、この小説が書かれた時代の思考構成の重要な契機としてありました。ヨーロッパの終焉がいわれた時代です(ヴァレリーの言説)。そして「失われたときをもとめて」の<後>は、二度目の世界大戦の後のことですね(シャルル・ペギー、サルトルカミュ、モーリアック、ボーヴォワール)。さてプルーストの小説は、繰り返し指摘されるように、いきなり誰だかわからない「私」という人物が出てきて、それが眠るでも眠らないでもない、はなはだ曖昧な状態にいることが感じられるといわれます。これは、「失われたときをもとめて」の<前>にあった知識人の覚醒とはかなり違った「私」でありましょう。ただ、(今日同じことを、今日貴族を模倣するプロレタリアート政党のネオリべ政治家(ブレアーなど)が演じることになるのですけれど)、'世界を創造する'といいながらブルジョアの、とくに貴族を模倣する同化主義ー同一性の反復ーにたいして軽蔑する、アナーキズムと芸術の側に沿う<わたし>であるところがポイントです。また他方で、「自分自身が、本に出てきたもの、つまり教会や、四重奏曲や、フランソワ一世とカルル五世の抗争であるような気がしてしまう」というとき、それは、ヨーロッパの外部にいる、アジア主義の過去をもつわれわれからみると、曖昧であることは曖昧だが、やはりヨーロッパ的主体を対抗的に構成する曖昧としかいえないもの。だけれど逃げ去った愛する女の喪失に語られていたような、絶望の手前かもしれない、不確定性を含んだそのヨーロッパ的主体の夢を指示するものは、「失われたときをもとめて」の<後>に出てくる戦後的実存の理念的に構成された主体を指示するものとはまったく違っているとおもわれます。

 

 

 

▼「失われたときをもとめて」の<前>

・「われわれのまわりでおこなわれつつある大きな変化を冷静に考えうるものに幸あれ。・・・この地上にいかなる力が支配しようとしているか、それに無知であるためには、保守主義者は愚鈍となり、民主主義者は無邪気とならねばなるまい。見るために創造された双の眼は、すでに昔ながらの物質の力をしかと認めているのだ。金と血である。・・・金=国家が知性を管理し、それに金をかぶせ飾りたてている。しかしじつは知性に轡をはめ眠らせているのだ。金=国家が欲するなら、知性が政治的真実を知るのを妨げることも、たとえ知性が真実を知ろうと、それを語るのを阻止することも、たとえそれを語ろうと、それを傾聴され理解されぬようにすることさえできるのである。」シャルル・モーラス(「知性の未来」1905年より
・「ヨーロッパは、現実においてそうであるところのものに、すなわちアジア大陸の小さな岬になってしまってしまうのだろうか。それともヨーロッパは依然として、そう見えているところのもの、すなわち地上の世界の貴重な部分、地上の真珠、巨大な身体の頭脳であろうか。」ヴァレリー「精神の危機」1919年

 

▼「失われたときをもとめて」の<後>

・「諸事件の奇妙な結合、奇妙な動きによって、近代の到来とともに力の権力の大部分、その殆どが凋落してしまった。だが、その凋落は、精神の権力に自由の場を与える事によって精神の権力に利するどころか、まさしくその逆に、他の権力の消滅は、殆ど金という唯一の力の権力に役立っただけなのである。
近代社会は堕落させる。それは都会を堕落させる。男を堕落させる。それは愛情を堕落させる。女を堕落させる。それは民族を堕落させる。子供を堕落させる。それは国家を堕落させる。家族を堕落させる。それはまた、恐らく世界で最も堕落させにくいもの(それこの常にわれわれの限界なのだが)さえ堕落させ、堕落させることに成功した。というのは、そのものは織り目のなかにあるようなおのれのうちにあって、堕落させることが奇妙にも不可能であるかのごとき、特殊な尊厳をもつものだからである。その<死>さえも堕落させられたのだ。」シャルル・ペギー(「一時的栄光の詩事件に直面する近代社会における知識人党の状況について」1907年
・「この動乱のなかで獲得される自由は、ある人たちが夢みることを愉しんでいる安楽な、飼い馴らされた面貌を持っているなどとはだれも考えることはできない。この恐るべき分娩は革命のそれである」(「自由の血」、「コンパ」1944年8月24日、アルベールカミュ
・「沈黙と夜との共和国のきびしい美徳をば白昼に保つような共和国」(ジャン=ポール・サルトル、「沈黙の共和国」「レ・レットル・フランセーズ」1944年11月9日)
「我々はいま知っている。我々を嘗て分割した全てのものにもかかわrず、我々は同じ精神の息子であり、おなじ<自由>によって培われた兄弟なのだと」(フランソワ・モーリアック「解放の翌日に書く」、1944年8月)
・「 私にとって、若いアメリカ兵の屈託のない様子は、自由そのものを具現していた。私達の自由と、そしてー私達は確信していたー彼等が全世界にあまねくもたらしつつある自由とを。ヒットラームッソリーニは打倒され、フランコサラザールは追放されて、ヨーロッパはファシズムを決定的に葬りさるだろう。CNR綱領によって、フランスは社会主義の道をたどるはずになっていた。フランスの国は土台まで充分にゆさぶられたから、新たな変動を持たなくとも、その社会構造の根本的な改革を実現できる、と私達は考えていた。「コンパ」紙がスローガンとして掲げた「レジスタンスから革命へ」という言葉は、私達の希望ををそのまま表現していた。」(ボーヴォワール「或る戦後」)