ヴィットゲンシュタイン「論理哲学論考」(1921)を読む

ヴィットゲンシュタイン「論理哲学論考」(1921)を読む

 

「読者はこの書物を乗り越えなければならない。そのときかれは、世界を正しく見るのだ。語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(藤本隆志訳)

Il faut qu'il surmonte ces propositions; alors il acquiert une juste vision du mond. Ce dont on ne peut parler, il faut le taire.


マルキ・ド・サドニーチェの研究家として知られている、クロソフスキー(Pierre Klossowski)だけれど、翻訳家としては、サドやベンヤミンニーチェウィトゲンシュタインらの著作を手がけました。クロソフスキーの思想には、評論『ニーチェと悪循環』などのように独特の「シミュラクル」の概念があり、この概念はドゥルーズに影響を与えたというから、それは、彼が翻訳に取り組んだウィトゲンシュタイン哲学とどこかで繋がっているのだろうとずっと思っていますけどね。▼ドゥルーズがいうように、ゴダール...カメラというのは、命題関数なのだけれど、そういう一切の命題によっては理念的には「語りえぬ」という不可能性に直面したときでも、ここから再び、命題によって「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と理念化していくところに、(理念に従うことができなくたっても)理念がなければやっていけなくなるという信の構造がいわれているようにおもうのですね。▼豊かな論理体系といえども、決して完全ではないということ、つまりインプットに正当な返変換を適用しても、アウトプットとして到達しえない真の定理が存在するという、ゲーデルによって初めて指摘された、(理性の限界といわれる)形式化の限界、というか、形式化による新しい数学の可能性は、入門書によれば、ルールの中での多様性の発見と説明されている。ここでたしかに完全主義者に夢見られた予定調和の世界を打ち壊わされたが、正当性という価値を問う意味がなければ考えることができくなるのではないだろうかとおもうのですね。▼「追及すべきなのはどのような最終目標であるかをめぐっての純然たる対立をわれわれのために調停することもできないーわれわれは他の何らかの方法で、これらの問題を解決しなければならない」(サイモン)。ルールの中での多様性を構成する、経済政策にかんする対立し合うどちらの言説が正しいのかははわかりません。ネオリべの経済政策を説明するマネタリズムと合理的期待形成学派とサプライサイド学説がただしいのか?社会民主主義の経済政策を説明するケインズ主義が正しいのか?このとき、「人間は世界全体を見ることはなく、自分たちの住んでいる世界のごく一部しか見ない。そして彼らの世界のその部分についてあらゆる種類の合理化をでっちあげることができるが、ほとんどの場合、それはその部分の重要性を誇張するような方向ででっちあげるのである。」というおもいにかられるのである。だけれど、最終目標として従うことができる理性の理念がなくなっても、もし理念というものがなければ、苦しい現実を正すことできなくなります。存在しないことを知っていても、たえざる理念化の再構成によって理念があるんだと信じるところでしか、オキュパイ運動以降の99%の権利を言う理念、ひとりでも飢えてはならぬという理念・理想をともなうことがなければ、とても、アナショナリズムの勢いを得たべノミックスにたいする抗議の行動も、抗議の言葉も書くこともできなくなってしまいます。

 

本多 敬さんの写真