近代としての「国民道徳」の誕生

近代としての「国民道徳」の誕生

 

 

▼「徳義は一人の心の内にあるものにて、他に示すための働きにあらず。修身といい、慎独といい、皆外物に関係なきものなり。・・・故に徳義とは、一切外物の変化にかかわらず、世間のき誉を顧みることなく、威武も屈すること能わず、貧賤も奪うこと能わず、確乎不抜、内に存するものをいうなり。」
「智恵は即ちこれ異なり。外物に接してその利害損得を考え、此の事を行うて不便利なれば彼の術を施し、我に便利なりと思うも、衆人これを不便利なりといえば、輒(すなわ)ちまたこれを改め、・・・外物に接して臨機応変、以て処置を施すものなれば、その趣全く徳義と相反して、これを外の働といわざるを得ず。」(福沢諭吉文明論之概略」1875)

 

▼(徳義とは)「つまり徳の内面性ということです。」
「智恵は現実の状況への働きかけ、外的環境にへの働きかけ方の問題となってくるわけです。外的環境との環境において利害得失を判断するのが智のレベルの問題です。したがって、今までより便利なものが生まれれば、それを用いることで状況も変わってくる。外の状況から問題が投げかけられ、施行錯誤を通じてその問題を解決していくー実践的に言えば、智恵の働きはそういうプロセスになるわけです。」(丸山真男「「文明論之概略」を読む」1986)

 

▼「私はさきに後期水戸学において構成された天皇制的祭祀国家という「国体」の理念が、日本の近代国家形成の上に重大な意味をもつことを指摘した。そして福沢の「概略」における文明論は、この「国体」理念のラジカルな脱構築的な言説としてあったことを私は前章にのべた。福沢は明らかにこの「国体」の理念が歴史の中で受肉化し、近代日本国家として実現されることに強い恐れをもっていたのである。そしてもう一つ福沢文明論が危惧をもって予知的に対していたものがある。それは家族的情宣関係や儒教的道徳論を培養基にして形成される道徳主義的な国民国家の形成に対してである。「文明論之概略」における「智徳諭」は新たな文明的社会における知性とモラルの形成を、儒教的道徳主義と、伝統の情宣的社会に対する強い批判とともに説いていくのである。「文明論之概略」における「智徳諭」は、このような視点から読み直されねばならないのである。」(子安宣邦「日本ナショナリズムの解読」2007、'道徳主義的国家とその批判')

▼「福沢がいま伝統的な徳論概念の解体的批判をもって対応しているのは、日本社会における道徳主義とよぶべき根強い考え方に対してである。道徳主義とは天下国家はもとより、人事万汎が道徳をこそ第一の眼目にし、根幹にすべしとする立場である。この立場は、平天下や治国もまた一己の修身に基づくとする儒家におけるものであった。この儒教に代表される道徳主義は文明開化の時代とともに消えてしまったわけではない。明治維新とともに始まった国家社会の急激な文明開化既存社会の道徳的核心を動揺させ、道徳的基盤を喪失させていく。世の識者はこの急激な文明開化とともに日本社会に生じた道徳的な空白に強い危機感を抱くのである。危機感をもったのは保守的な漢学者や国体論者ばかりではなかった。福沢の仲間たち、明六社の同人の中にもいたのである。西村茂樹は後の日本弘道会となる修身学社を明治9年(1876)に設立している。「日本道徳論」(1887)を後に著し、国民道徳運動を展開した西村が強い危機意識をもって見ていたのも明治社会におけるこの道徳空白であった。儒家的道徳主義は明治転換期における道徳的な危機意識とともに再生するのである。明治国家におけるこの道徳的な危機意識がやがて「教育勅語」という、天皇の名による国民道徳の宣告と臣民的規範の付与をもたらすことになるのである。福沢文明論がすでに直面していたのは、明治の社会的転換とともに生じた道徳的な空白がその再生を促した道徳主義の主張であった。(・・・)

「もし事物の極度を見て議論を定むべきものとせば、徳行の数も無力なりといわざるを得ず。仮に今、徳教のみを以て文明の大本と為し、世界中の人民をして悉皆耶蘇の聖教を読ましめ、これを読むの外に事業なからしめなば如何ん。禅家不立文字の教を盛んにして、天下の人民、文字を忘るるに至らば如何ん。古事記、五経を暗誦して、忠義修身の道を学び、糊口の方法をも知らざる者あらば、これを文明の人というべきや。五官の情欲を去てかん苦しに堪え、人間世界の何物たるを知らざる者あらば、これ開化の人というべきや。」

福沢の真骨頂ともいえるこの道徳主義への揶揄に満ちた激しい反論は、現今日本における議論の本位とすべきは何かを明らかにするためである。・・・」(子安宣邦「日本ナショナリズムの解読」、'道徳主義的国家とその批判'より)