和辻哲郎を考える

和辻哲郎が「国民道徳」をモダンな「倫理学」にシフトさせた功績は大きいといわれます。子安宣邦氏はこう指摘しました。「20世紀初頭の近代日本が直面する国家的・社会的規範から生まれた国民道徳論は、19世紀初頭の国家的危機に対応した水戸学の政治神学(国体論・忠孝一致論)をイデオロギー的な軸にし、家族国家諭を国民統合の論理として再構成された道徳教科の論説であった。そして国民道徳という教科目は倫理学という教科の補助教科として併設されたのである。和辻はこの既存の国民道徳論に、その概念の曖昧さを衝く形で挑戦する。」「国民道徳論は「ブルジョア精神をばそれと本質的に異る尊皇心と結合させるという如き反対の結果を生み出した」と和辻はいうのである。」「既存の国民道徳諭に欠落するのは全体性としての国民の概念である。すなわち近代の国民国家が前提にする国民(ネイション)の概念である。近代日本はnationの訳語としてのみ「国民」の語を構成しても、一つの統一体としての「国民」概念をもっていにと和辻はいうのである。」。そこから和辻は日本民族の呼び出しをおこなうことになります。一番最近の子安氏のツイートはそれに関してこう言っています。

 

『日本古代文化』の冒頭の章「上代史概観」で和辻は、「我々の上代文化観察はかくの如き「出来上つた日本民族」を出発点としなければならぬ」といっている。彼は考古学的遺物をはじめ歌謡、神話、信仰、音楽、造形美術などによって上代文化を考察するが、その文化の共同的形成主体である日本民族がすでに出来上がっていることを前提にするというのである。混成せられた民族がすでに「一つの日本語」を話すところの「日本人」として現れてきていることを前提にするというのである。『古寺巡礼』の作者和辻にしてはじめてなしうるような日本上代文化の考察とは、芸術性豊かな日本民族を文化的遺物によって読み出すことでもあるのだ。『古事記』とはこの日本民族の最初にして最古の芸術的作品である。昭和の偶像はこのようにして再興された。(「和辻哲郎と『古事記』の復興」)

和辻は、「上代人は、全体性の権威を無限に深い根源から理解して、そこに神聖性を認めた。そして神聖性の担い手を現御神や皇祖神として把握した。従って全体性への順従を意味する清明心は、究極において現御神や皇祖神への無私なる帰属を意味することになる。この無私なる帰属が、権力への屈従ではなくして柔和なる心情や優しい情愛に充たされているところに、上代人の清明心の最も著しい特徴が看取せられるべきであろう。」(『日本古代文化』)というのですけれど、笑止。強奪強姦野蛮の極みとおもわれる文字なき大和日本の時代にどこのだれが「清明心」だったというわけでしょうか!?と、しかし、それにしても、「古事記」に依るというがその原初的テクストの読めない書記性にではなく、あえて、ヨーロッパ解釈学を介してしか理念的に構成されることがない「清明心」を読み出していくことになった、「清明心」を読み出していく声の力に依拠していく言説が、思想史的にもった意味ですね、それはなにか?声の言説は、「倫理学」がアングロ・サクソン的<近代>の超克の倫理学的な哲学的自己主張であったのと同じ意味で、「世界史的意義」に通じるなにかの抵抗ー自己が自身を代表できるような抵抗ーを構成する外部性をもっていたのか?外部性をもったとは到底正当化もできない、最終的な失敗に帰した破産は破産ですけれど、思想史的にみるとき、和辻の日本古代文化の意味をどう解釈していくのかという課題がわれわれにありますね。