和辻哲郎「日本倫理思想史」を読む前に

週末はこれを読むことになるのだろうとおもいますが...びっくりしますが、現在、国民道徳というものが、教育の現場で復活する危険があるといわれます。本当ならば深刻な事態です。▼子安氏の講義をきいた私の記憶と理解が正しければ、かつて(国体諭的)国民道徳を市民の倫理学(「人間の学としての倫理学」) へと見事にシフトさせたのが和辻哲郎の功績でした。▼ところが、日本文化論の和辻は、ヨーロッパ解釈学を介して理念型として構成しただけの、(したがってヨーロッパ化・近代化の日本にしか成り立たない)「倫理」を、なんと!古代日本(とかれがかれに都合よく純粋に考えた想像物)にもとめて実体化させてしまったのです。▼常に隠蔽されてしまうものは、中立的に日本文化論的に語るときの不可避的な政治性ではないでしょうか。▼さて、憲法改定の神道非宗教化が無理でも、神道の日本文化置き換えで、天皇と総理の靖国参拝への道をみとめることは危険な神話化だといいたいです。信教の自由を保証した民主主義に反することだとおもいます。▼しかし安倍の応援団の日本会議が救済神学の様相を呈しています。これからますますそうなるのかもしれません。▼厄介なことに、この救済神学に対抗するリアリズムの側でも、「帝国の構造」ごときヘーゲルマルクス的教説は、民主的介入に委ねるくらいならば、世界資本主義の自己崩壊かあるいは世界資本主義の分割のほうがましだと思っていることです。▼神話とリアリズム、この両者は、相補的に、二十一世紀ファシズム日本において互いに切り離せない関係を展開してくることになるというのでしょうか?