フーコ「監獄の誕生」(1975)を読む

フーコ「監獄の誕生」(1975)を読む

バス車内の広告ポスターに、「美しい国を守る〜未来へと繋ぐ若い力〜 自衛隊幹部候補生募集」と。ヤバイ、今までのと比べて相当ヤバイという感じ。英国では勇気が試される戦争ゲームに君も活躍してみないかというスポーツ感覚のノリノリの宣伝が深夜テレビで流れてきましたが、「美しい英国を守れ」という文化論的な説得による勧誘はありませんでした。なぜこの日本だけ、戦前もどき国体スローガンがそのままの形で出てくるのか?▼安倍首相の言葉を使った選挙ポスター「美しい国を守る」を思い出すと、まるでこの自衛隊幹部候補生募集のポスターは国民全員を名宛人にしているのかしらと疑います。この疑いを持つこと自体が大げさだといわれて恥ずかしくおもわされてしまうというプレッシャーが現在ありますね。それは、岐阜大が国歌斉唱しない当然の方針に馳文科相が「恥ずかしい」と浴びせる非難のプレッシャーと同じと思うのです。▼法律や宗教の次元ではなく、国民道徳・国民文化そしてナショナリズムの次元で罰せられるプレッシャーのことを、「至高者」のブランショと「監獄の誕生」のフーコは分析していました。例えば功利主義の言説ー>その道徳化ー>国民道徳化。近代とは、監獄の内と外の間に境界がなくなる体制。そうして排他的で好戦的な近代ナショナリズムが最終的に成り立つのは、国家に敵対する他者を罰するという近代の空間においてです。▼「歴史修正主義者安倍や日本会議の連中が呼び出している「日本」とは、まさしく日本主義的「日本」で、そのときの彼らの日本主義は独善的で、薄っぺらな反知性主義的な情緒的ナショナリズム、一番始末の悪いナショナリズム」(子安)▼彼らの憲法改正のねらいは、神道の非宗教化と国家神道復活。また現在まで批判されるずに無傷のままにある、天皇制的構造論の山口や網野がやった神道を文化論として還元する試みも、憲法改定と同じ危険な効果ー祀る国民・戦う国民を形成するーを齎す危険性のことを一言言っておこうと思います

 

 

 
 
本多 敬さんの写真