木村敏「時間と自己」(1982)はなぜ読めないのか?

木村敏「時間と自己」(1982)はなぜ読めないのか?

説明の言葉が足りずうまく自分の疑問をいいあらわせないのだが、そういう自分の限界も書いておくことも大事だろう。木村敏「時間と自己」(1982)はなぜ読めないのだろうか?この本の結論のなかで、自分の考えを明確にするためにデリダの考え方と比べている部分を久々に読みかえしてみた。其の前提として、デリダの問題提起を紹介している。「デリダにとって、独り言において「自分が自分の話す聞く」という現象は、「自分が自分自身を意識する」ことの、つまり自己への現前としての自己意識一般のモデルの役を果たしている。この純粋な自己触発の行われる分割不能ないまの瞬間は、「或る非ー現在性」、「或る他性」との「或る純粋な差異」によって根源的に分割されている。この「純粋な差異」のことを、デリダは「差異」と「時間的遅延」の二重の意味をもつ「差延」(différance)という造語で表記する。」という。ここで、文字を読む知識人の「自分が自分の話すのを聞く」とはっきり書いたほうが、(私にとっては)、デリダの問題提起がクリアーになる...というものだ。さて木村は、言葉が人間意識に介入しない禅の経験に注目して、これを純粋に理念的に構成していくことになる。「禅は「不立文字」ということを言う。しかし不立文字とは無意識ということではない。文字を立てない意識、自己とは言わない意識において、自己や時間はどのようなあり方を示すのだろうか」。だがここで、禅の意義について強調するならば、中国宋代にさかのぼると、書かれた文字ではなくそのかわりに話し言葉が人間意識に介入する場のことをみとめなければならない。人間意識の問題は、文字を読む知識人がいかに文字なき世界(話しことば)との関係を考えることになるのかという問題なのである。話し言葉しか介入しない禅の経験、祝祭、文字を読む「自己以前の自己」。おそらくは、これらは、(文字によってしか歴史意識が成り立たなかったのに文字に先行したとみなされてしまう)、純粋な声が主催する神話の場所と一致することの可能性がでてくるのである。ここで木村は「自己以前の自己」についてかんがえているが、「自己以前の自己」を自己と言うことはできないだろうという。それは、「自分自身の故郷である死への通路」と形容されている。だがいったい誰が「故郷」というのか?理念が「故郷」を言うのである。そうであるかぎり、(エクリチュール的理念に絡み取られないようにせっかく見いだした)話し言葉の自己や声の自己を再び【共同体的)起源の理念性に戻してしまうことにはならないのだろうか?木村はこういうけれど。「自己が自己自身でありうる可能性の条件を、自己が将来的に自己自身に到来することとしての自己触発に見たハイデガーと、自己を過去把持的に痕跡として保持することとしての自己触発に見たデリダとの、この興味深い対比について論じることは、本書の範囲を超える作業である。(・・・)自己以前の自己を、自己と言うことはできないだろうか「デリダは、自己への根源的な現前の根底には、より根源的な非現前としての痕跡があり、この痕跡のために生じた時間的なずれとしての差延が現在を派生させるのだという構想に執拗に固執する。しかしこの構想は、究極のところ個別的生の有限性という制約を脱しきってはいないのではないだろうか。祝祭の瞬間においては、痕跡にひきずられない現前、差延を絶対的に免れた現在の自己が忽然と出現しうるのではないだろうか。」。文字から解放されることをおもう、文字の奴隷である知識人は、いかに文字に先行した世界と自己との関係を語りうるのだろうか?木村がみずから語っている・・・