レヴィ=ストロース「野生の思考」(1962)を読む

レヴィ=ストロース「野生の思考」(1962)を読む

 

レヴィ=ストロースは、構造主義の中心的人物として人類学の分野をこえ、一般思想界にも影響を与えているが、かれの代表的仕事のひとつである「野生の思考」の<前>になにが語られていたのか(サルトル) 、そして「野生の思考」の<後>になにが語られることのなったのか (フーコ、デリダ、アラン・フィンケルクロート、デュラス)をみることによって、「野生の思考」においてはじめて語られることになったことについて考えてみようというわけです。▼「野生の思考」のレヴィス=トロースは、器用仕事(ブリコラージュ)といわれる概念を定義しこれを展開しています。「神話的思考の特性は、工作面での器用仕事(ブリコラージュ)と同様、構造体をつくるのに他の構造体を直接に用いるのではなく、いろいろな出来事の残片や破片、英語でodds and ends, フランス語で des bribes et des morceaux と呼ぶものを用いることである」。それを語ることの意味を明らかにするために、「野生の思考」の<前>に語られていたサルトルの言説にさかのぼってみますと、(現在再び読み直されているという)「奇妙な戦争日記」にこんな文があります。「人間が作った物を爆弾が破壊する前に、すでに物の人間的な意味は崩壊してしまっている。戦争において、我々は道具世界の中を歩いているが、実際はそこは瓦礫の中である。物から微かな媚態を感じ取るその瞬間に、たちまち、そのような人間的な意味が消失した世界の儚さのなかに佇んでしまう。」。▼ここで、「瓦礫」で意味されるのはヨーロッパの「瓦礫」であり、したがって「物の人間的意味」意味されるのもヨーロッパの「物の人間的意味」だと見抜けば、こうしたサルトルの言説を差異化するために、新たにレヴィ=ストロースがどこから語ることに意味があると考えたかを知ることができるとおもいます。ヨーロッパの外部です。ただしヨーロッパが語るヨーロッパの外部、という限界がありますが、とにかく「野生の思考」がなしたことは、普遍主義の代名詞であったヨーロッパ(と優越した特権的な歴史意識)を相対化してみせたことでした。そこから、「物」という特殊性の意味を、器用仕事(ブリコラージュ)の措定によって、復活させることになりました。
▼では、「野生の思考」の<後>に、フーコ、デリダ、アラン・フィンケルクロート、デュラスにおいて新しく語られたことはなにか?その前に確認しておきたいことは、ポスト構造主義と呼ばれることになるフーコ、デリダがいかに、構造主義のレヴィストロースと共有した思想の連続面を構成していたかという点です。サルトルとの不可避的な連続性も読み取ることができます。

「我々の住む地球の裏側には、延長による秩序づけに完全に捧げられた、しかも、我々にとって名づけ話し思考することが可能となるようないかなる空間にも諸存在のの増殖を配分しない、そのようなひとつの文化があるのにちがいない。」「ともかくひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。・・人間は、我々の思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そして恐らくその終焉は近いのだ。」(フーコ「言葉と物」)

「多次元性への、また脱=直線化的時間への接近は、たんに「神話文字」に後退することではない。逆にそれは、直線的モデルに従属したあらゆる合理性を、神話書法の別の形式、別の時代として現われさせる。<エクリチュール>の省察においてこのように告知されている超=合理性や超=科学性は、それゆえ一つの人間の科学の中に閉じ込められることもできず、また科学の伝統的観念に対応することもできない。それらは唯一の同じ所作によって、人間、科学、直線を乗り越えるのだ。」(デリダ「グラマトロジーについて」)

「彼等は、かくも長い間第三世界の民衆のうえにふるってきた覇権を恥じ、もはや再び同じ過ちを繰り返すまいと誓い、西欧の自由の厳しさを彼等には強制しない事を決意した。・・・そして人権の適用範囲を西洋人に限定し・・各人に各々の文化のうちで生きる権利を保障するまでに至った。」(アラン・フィンケルクロート)

▼「野生の思考」は、前にのべたように、普遍主義の代名詞であったヨーロッパと優越した特権的な歴史意識を相対化してみせましたが、しかしそれはヨーロッパが語るヨーロッパの外部という限界がありました。「野生の思考」の後に語られてくるのは、多様性としての普遍主義のあり方です。ここで多様性は、「世界史の構造」「帝国の構造」に語られていた'分割'のことではないでしょう。多様性としての普遍主義が難しいのは、それを理念的に構成するときに再び、唯一つの普遍主義にもどってしまうのではないかという問題です。思考としての多様性としての普遍主義と、それを書くという行為とが一体になっていなければ・・・

▼最後に書いておこうとおもうのですが、ポスト構造主義が批判されるポストコロニアリズムの80年代に、デュラスの小説の意義が再発見されたことです。このデュラスを小説を読むとき、サルトルとの間の凄いギャップに驚きを禁じえません。作家にとっての「物の人間的意味」も、「器用仕事(ブリコラージュ)の詩」も、ヨーロッパから再び読もうとしていたのなら、デュラスはこう反論するでしょう。「ときにはわたしは、こうだと思う。書くということが、すべてを混ぜあわせ、区別することをなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら、そのときには書くことは何ものでもない、と。書くとはそのたびごとに、すべてを混ぜあわせ、区別することなどやめて本質的に形容不可能なただひとつのものへと溶け込ませることでないとしたら、そのときは書くとは宣伝以外の何ものでもない、と。(デュラス「愛人」清水訳) Quelquefois je sais cela; que de moment que ce n'est pas, toutes choses confondues, aller à la vanité et au vent, écrire ce n'est rien. Que du moment que ce n'est pas, chaque fois, toutes choses confonues en une seul par essence inqualifiable, écrire ce n'est rien que publicité. - Duras (1984) 。「器用仕事(ブリコラージュ)に見出された「物」という特殊性の意味は、デュラスにおいては拒まれています。語りうるものがまだるとしたら、それはデュラスが表現しようとした、本質(唯一の普遍主義)なき形(特殊性)ではないでしょうか。

 

<参考>

▼私は、これまで、戦争というものを見たことがない。私は戦争を把握することができない。しかし、戦争世界ならば見てきた。それは、単純な軍事世界のことだ。戦争は事物の意味を変えてしまう。戦中に兵隊を迎える民家では、歓迎という本来の意味が空虚となってしまう。つまり、自己破壊を孕んだ可能性というものは常に不条理になってしまう、ということだ。金欲しさに兵隊を歓迎する民家を目にするとき、ブルジョア的な自由の意味について考える。貨幣の自由のことを。これらの民家は元来、民間人の住宅を軍が徴用したものだ。兵隊の宿泊が保障されているが、その兵隊達には支払う金は無く、好き勝手にできるわけでもない。戦争の世界とは貨幣なき世界であり、また、自由も存在しない世界である。
「軍徴用」という張り紙を読める者ならば、そこに新しい意味が付与されていることに気付くはずだ。「強制と命令に基づく賃貸料の無償化」、という意味である。つまり、民間人の住宅は純粋な道具となったわけである。例えそれが高価な所有物だとしてもである。兵隊の宿泊のために供与すべき厳粛な義務を軍は国民に課している。旅行者の宿泊のために用意した愛らしい部屋もあるが、いったん兵隊によって占拠されると、ただの巣穴の外観を呈するようになる。ベッドは通常家の者によって取り除かれ、仮に部屋に置かれていたとしても、そこに横たわることはできない。兵隊は藁の上に眠らなければならない。人間が作った物を爆弾が破壊する前に、すでに物の人間的な意味は崩壊してしまっている。戦争において、我々は道具世界の中を歩いているが、実際はそこは瓦礫の中である。物から微かな媚態を感じ取るその瞬間に、たちまち、そのような人間的な意味が消失した世界の儚さのなかに佇んでしまう。つまり、途絶えることなき幻想の反復。戦争とは非常に重い道のりに喩えることができる。いかなる場所も、私の可能性の内部のなかに存在しない。これらの空間は現実性を伴なわない。仲間の兵隊達が「きれいな風景」とか「気持ちのいい村」と言い、「平和になったら、ここに戻ってくるぞ」と語るとき、これらの言葉は皮肉にも、私の深い喪失感を見事に翻訳する。(サルトル)

▼「神話の世界は出来上がったと思うとすぐ分解し、その断片からまた新しい世界が出来上がるかのごとくである」。これは深く突っ込んだ見方ではあるが、それでも見落としているところがある。それは、同じ材料を使って行うこのたゆまぬ再構成の作業の中では、前には目的であったものがつねに次々に手段の役にまわされることである。すなわち、所記が能記に、能記が能記にかわるのである。
器用仕事(ブリコラージュ)の定義としても通用しうるこの定式によって、神話的思索にとっては、使用可能な手段が暗黙のうちにもことごとく調べ上げられるか頭に入れられていないと、できあがりが定まらないということがわかる。できあがりはつねに、手段の構造と計画の構造の妥協として成り立つのである。出来上がったとき、計画は当初の意図(もっとも単なる略図)とは不可避的にずれる。これはシュールレアリストたちがいみじくも「客観的偶然」と名付けた効果である。しかしそれだけではない。器用仕事(ブリコラージュ)の詩は、そのほか、またとりわけ、それが単にものを作り上げたり実行することにとどまらないところにある。器用人は、ものと「語る」だけでなく、ものを使って「語る」。限られた可能性の中で選択を行うことによって、作者の性格と人生を語るのである。計画をそのまま達成することは決してないが、器用人(ブリコラージュ)はつねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。(・・・) 神話的思考の特性は、工作面での器用仕事(ブリコラージュ)と同様、構造体をつくるのに他の構造体を直接に用いるのではなく、いろいろな出来事の残片や破片、英語でodds and ends, フランス語で des bribes et des morceaux と呼ぶものを用いることである。
ークロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」(1962)

▼いわゆる左翼の人間は、実践の要請と解釈の図式との合致という特権が与えられていた現代史の一時期をいまだにしがみついている。この歴史意識の黄金時代は多分もう終わったのであろう。終わったのかも知れぬと考えることは少なくともできるが、そのこと自体、黄金時代が偶然的状況に過ぎぬことを証明するものである。
クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」

 

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