思想史が読む萩原朔太郎

思想史が読む萩原朔太郎

 

▼書店の棚に、関東大震災の話題をのぞいて、大正の本をあまり置いていないようですが、明治の巨人と昭和の巨人のあいだにはさまれていたかのように大正はそれほど存在感がない?しかし重要な事柄はみんな、大正のときにおきてきます。たとえば、'社会'と名のつくものは全部、大正のときに生まれてきました。'社会政策'、'社会運動'、'社会主義' 等々。さて大正といえば、日本帝国主義が成立します。大正デモクラシーに先行して、植民地をもつ国家が確立したのです。ここをおさえておくことがたいせつです。ところで大正の知識人たちは、明治知識人ほどには、あるいはまったく全然、漢詩をよめなくなった世代だったことに注目する意見があります。もちろんきょうまで漢字仮名交じり文の体制はかわりませんが、しかし知識人にとって考えるためには、漢字受容の1500年の歴史をもつ、この普遍言語はなにによってとってかわられることになったのか?大正時代は、たとえば留学に行く和辻哲郎がヨーロッパから新しく学ぶものがないほど、同時代のヨーロッパを吸収したといわれるときでしたが、ヨーロッパ語が決定的な役割を果たすことになりました。詩や演劇などにおいてもヨーロッパ語翻訳が新しい時代の芸術言語を構成していくのです。。「ふらんす生きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と語った、 萩原朔太郎の詩「黒い風琴」を読むと、新しい時代の芸術の息吹を読み取ることができます。

 

黒い風琴

おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あんたは黒い着物をきて
おるがんの前に座りなさい
あなたの指はおるがんを這うのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふっている音のように
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。

だれがそこで唄っているの
だれがそこでしんみりと聴いているの
ああこのまっ黒な憂鬱の闇のなかで
べったりと壁にすひついて
おそろしい巨大な風琴を弾くのはだれですか
宗教のはげしい感情 そのふるえ
けいれんするぱいぷおるがん れくえむ!
お祈りなさい 病気のひとよ
おそろしいことはない おそろしい時間はないのです

お弾きなさい オルガンを
やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときにの松葉のやうに
あかるい光彩をなげかけてお弾きなさい
お弾きなさい おるがんを
おるがんをお弾きなさい おんなのひとよ。

ああ まっくろのながい着物をきて
しぜんに感情のしずまるまで
あなたはおおきな黒い風琴をお弾きなさい
おそろしい暗闇の壁の中で
あなたは熱心に身をなげかける
あなた!
ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。

(「青猫」大正12)

 

▼ところが、大正のアバンギャルドは本当にそれほどアバンギャルドであったのだろうかとおもうのは、朔太郎の詩が街を観察した庶民的な詩「大渡橋」を経て、全体主義の昭和十年の前年に、漢詩のような「帰郷」を書くに至る流れを知るときですね。漢詩は、シュールレアリストの前衛詩人において、完全には消滅していなかったということではないでしょうか。あいは、反時代的に書いたということかもしれません。昭和10年前後に書かれた「帰郷」(昭9) を紹介しますと、

 

ここ長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自転車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢えたる感情は苦しくせり。

ああ故郷にありてゆかず
塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤独の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいっさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢えたり
しきりに欄干にすがりて歯を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頬につたひ流れてやまず
ああ我れはもう卑陋(ひろう)なり。
往くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野は暮れんとす。
(大渡橋;萩原朔太郎氷島」大正14)

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽車は闇に吠え叫び
火焔(ほのお)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何処の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向かへり。
砂礫(されき)のごとく人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗澹として長なへ生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや
汽車は荒野を走り行き
自然の寂寥たる意志の彼岸に
人の憤怒を激しくせり。

 

 

▼1937年に、萩原は『日本への回帰―我が独り歌へるうた―』を書いていますが、ここには反時代精神のを読み取ることが難しくなります。ヨーロッパの解釈学に対抗して、呼び出す日本精神の理念的構成ごとき近代の超克を読むことになるのかもしれません。どうして日本回帰というものが起きるのかが2016年後半の昭和思想史研究会の講座において問われることになるでしょう。現在の安倍自民党のもとで進行している問題をかんがえるためにも。

 

以下、『日本への回帰―我が独り歌へるうた―』から抜粋すると、

 

・少し以前まで、西洋は僕等にとつての故郷であつた。昔浦島の子がその魂の故郷を求めようとして、海の向こふに竜宮をイメーヂしたやうに、僕等もまた海の向こふに、西洋といふ蜃気楼をイメーヂした。だがその蜃気楼は、今日もはや僕等の幻想から消えてしまつた。
・明治以来の日本は、殆ど超人的な努力を以て、死物狂ひに西欧文明を勉強した。だがその勉強も努力も、おそらく自発的動機から出たものではない。それはペルリの黒船に脅かされ、西洋の武器と科学によつて、危うく白人から侵害されようとした日本人が、東洋の一孤島を守るために、止むなく自衛上からしたことだつた。(・・・)それ故に日本人は、未来もし西洋文明を自家に所得し、軍備や産業のすべてに亙つて、白人の諸強国と対抗し得るやうになつた時には、忽然としての西洋崇拝の迷夢から覚め、自家の民族的自覚にかへるであろうと、減るんの小泉八雲が今から三十年も前に予言してゐる。そしてこの詩人の予言が、昭和の日本に於て、漸く実現されて来たのである。(・・・)だがしかし、僕等はあまりに長い間外遊して居た。そして今家郷に帰つた時、既に昔の面影はなく、軒は朽ち、庭は荒れ、日本的なる何者の面影さへもなく、すべてが失はれてゐるのを見て驚くのである。僕等は昔の記憶をたどりながら、かかる荒廃した土地の隅々から、かつて有つた、「日本的なるもの」の実体を探さうとして、当もなく侘びしげに徘徊してゐるところの、余にも悲しい漂泊者の群なのである。(・・・)僕等は一切の物を喪失した。しかしながらまた僕等が伝統の日本人で、まさしく僕等の血管中に、祖先二千余年の歴史が脈搏してゐるといふほど、疑いのない事実はないのだ。そしてまたその限りに、僕等は何物をも喪失しては居ないのである。
・過去に我等は、支那から多くの抽象的言語を学び、事物をその具象以上に、観念化することの知性を学んだ。そしてこの新しいインテリジエンスで、万古無比なる唐の壮麗な文化を摂取し、白鳳天平の大美術と、奈良飛鳥の雄健な叙情詩を生んだのである。今や再度我等は、西洋からの知性によつて、日本の失われた青春を回復し、古の大唐に代るべき、日本の世界的新文化を建設しようと意志してゐるのだ。
・過去に我等は、知性人である故に孤独であり、西洋的である故にエトランゼだつた。そして今日、祖国への批判と関心とを持つことから、一層また切実なヂレンマに逢着して、二重に救ひがたく悩んでゐるのだ。孤独と寂寥とは、この国に生まれた知性人の、永遠に避け難い運命なのだ。(・・・) 僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。暫く我が静かなる周囲を去れ

 
本多 敬さんの写真