感想文ー東京演劇アンサンブルのホルヴァート「最後の審判の日」(1936)

感想文ー東京演劇アンサンブルのホルヴァート「最後の審判の日」(1936)

▼「最後の審判の日」(1936)の上演を、2016年の日本で行う意味はなにか。演出家の公家義徳氏が現代社会のストレスやヘイトスピーチの問題との関連性に言及していた新聞記事を読んだので、今日の政治家が率先して行っているようにみえる、「戦争する国家」が敵対的他者を揶揄するヘイトスピーチというものについて考えながら、この芝居が書かれた1930年代が先行していた歴史を念頭にブレヒト小屋へ向かった。▼戯曲家のホルヴァートは、「私のすべての作品の戯曲における根本主題は、意識と潜在意識とのあいだの永遠の闘いなのです」と言っているが、舞台における「意識」と「潜在意識」とのあいだを垣間見たという思いに駆られている。探偵のようになって、自らの「意識」の覗き穴から、「エデンの園」を喚起する「トーマス・フーデツ」と「アンナ」の性愛キスを契機に滑稽に展開する人間心理ドラマの喜劇を楽しんだ。と同時に、この芝居がたんに列車事故の犯人探しの物語に隠ぺいできないような不気味なものに覆われていると感じながら、...どの場面にも住民たちが覗いている姿が存在するという、国家が国民生活の隅々まで監視する国民総力戦前夜の息苦しい不気味さを目撃していた。そして、万歳三唱する男性たちに囲まれた、三唱の渦から外れた無気力な女がかわるがわる相手を変えながらダンスをする場面は輪姦を想起させて戦慄が走る。▼「私のすべての作品は悲劇である。それが喜劇的となるのは、不気味だからにほからない。この不気味なものが存在しなければならないのである」舞台の進行に伴い、キスがもたらした悲劇である「列車衝突事故」の犯人さがしの「意識」と、聖書の物語のごとく罪を問う「潜在意識」のあいだを呈示していく。そうして、描かれる市民生活の日常が、喜劇的に「不気味なもの」、つまり、読み解けない徴の連鎖と変容していく。「トーマス・フーデツ」が死者の魂との神学の教理問答というべき拷問に絡み取られていく「最後の審判の日」に、祖国の罪なき無垢なイブ(国民)を殺戮しようとする外部からの侵略者アダム(他者)がスケープゴートとして呼び出される、という潜在意識の構造が繰り返される歴史を目撃する。▼「フーデツ夫人」、「アルフォンス」、「トーマス・フーデツ」の三人が登場する二幕冒頭の会話は、「人間性は闇のなかの弱々しい光でしかない」というホルヴァートの言葉を彷彿させる。「アンナ」の殺人の嫌疑で追われる身の「トーマス・フーデツ」はもはや登場人物としての「駅長」ではなく、ファシズムの時代に亡命を余儀無くされたホルヴァート自身のごとき知識人として現れているのではないかと想像する。そこには追い詰められ孤立しているがゆえに、「人々に自分自身を認識してもらうために書く」ことが可能な知識人の孤独の力が表現されたのではないか。主題の取り組みと表現のバランス。役者のエネルギーと方向性。チェンバロの生演奏による音楽。照明、舞台美術衣装と振り付けのアイデア。全体がすべて面白く調和し非常に洗練された作品ができあがった。日本初公演というこの舞台は、三年前の野心作である「忘却のキス」を超えたかのようにみえる。