溝口雄三「方法としての中国」(1989) を読む

溝口雄三「方法としての中国」(1989) の<前>になにが語られていたのか、そして「方法としての中国」 の<後>になにが語られることのなったのかをみることによって、溝口氏においてはじめて語られることになったことについてなんとか考えてみようと思います。西洋大好きの代表選手が和辻哲郎だとしたら、アジア大好きの代表選手は竹内好といわれます。竹内氏は戦前の近代の超克論の重要な論客のひとりでした。溝口「方法としての中国」に先行して、あたかも思考の原点として、竹内「方法としてのアジア」論が存在していました。以下、1961年の講演会をベースにした文を示します

「人間類型としては、私は区別を認めないのです。人間全部同じであるという前提に立ちたいのです。皮膚の色が違うとか、顔が違うとかはありますけれども、人間の内容は九通であり、歴史性においても人間は等質であるというふうに考えたい。そうすると近代社会というものは、世界に共通にあり、それが等質の人間類型を生み出すことを」」認めざるを得ない。同時に、文化価値も等質である。ただ文化価値は、宙に浮いているのではなくて、人間の中に浸透することによって現実性をもちえる。ところが自由とか平等とかいう文化価値が、西欧から浸透する過程で、タゴールが言うように武力を伴ってーマルキシズムか言うならば帝国主義ですが、そういう植民地侵略によって支えられた。そのため価値自体が弱くなっている、ということに問題があると思う。たとえば平等といっても、ヨーロッパの中では平等かもしれないが、アジアとかアフリカの植民地搾取を認めた上での平等であるならば、全人類的に貫徹しない。では、それをどう貫徹するかという時に、ヨーロッパの力ではなんともし難い限界がある、ということを感じているのがアジアだと思う。東洋の詩人は直観的に考えている。タゴールにしろ魯迅にしろ。それを全人類的に貫徹するものこそ自分たちであると考えている。西洋が東洋に侵略する、それに対する抵抗がおこる、という関係で、世界が均質化すると考えるのが、いま流行のトインビーなんかの考えですが、これにもやっぱり西洋的な限界がある。現代のアジア人が考えていることはそうなくて、西欧的な優れた文化価値をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値上の巻き返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。それはなにかというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」(竹内好、1961)

 

戦中- 戦後育ちの溝口氏がいかに竹内好の言説を読んだのかは、この一文に集約されているとおもわれます。以下は、溝口雄三「方法としての中国」(<<中国の近代>をみる視点)からの引用です。

「わたくしたち戦中- 戦後育ちの中国研究者のほとんどの研究起点に、中国への批判的視点というものはなかった。むしろ中国に批判的かつ蔑視的なであり、そのためおのずと中国侵略に加担することにもなった戦前ー戦中の、例えば津田左右吉氏らの近代主義的中国観を、批判もしくは排除するところこそが起点であった。
その場合その有力なよりどころの一つが、例えば竹内好の『魯迅』や「中国の近代と日本の近代」にみられる中国観であったろう。それは日本のいわゆる脱亜的な近代主義自己批判し、その反面それの対極におしやられていた中国に、かえってあるべきアジアの未来を憧憬したものであり、極端にいうならばわたくしたちの中国研究の起点には基本的にこの憧憬が、まずあった。この憧憬なるものは、さまざまの日本内的自己意識、すなわち日本の近代百年にかかわるさまざまの反あるいは非日本意識の対極に、いわば反自己意識の投影像として自己内に結...ばれたそれに向けられたもので、だからそれはあらかじめ主観的なものであった。憧憬は客観的な中国に対してではなく、主観的に自己内に結像された「わが内なる中国」に向けられたものであった。だからその「中国」は徹底徹尾、日本的近代の反措定たりえたし、だから憧憬すべくして憧憬されえた。(...). 「中国の近代」との関係におけるそのような自己否定的な憧憬構造が、わたくしたちの反脱亜的-反近代主義的な、またはアジア主義的な主体を、主観的な、したがって脆弱なものにしていたこともまた歪めない。わたくしたちは中国の近代を歴史的に客観化しえておらず、そしてそれは日本の近代を歴史的に客観化しえていなかったことと裏腹であった。その傾向に、よりどころとされたのが竹内氏の「中国の近代と日本の近代」なのである。」(溝口)

「事実はといえば、もともと中国の近代はヨーロッパを超えてもいなければ、取り残されてもたちおくれてもいない。それはヨーロッパとも日本とも異なる歴史的に独自の道を、最初からたどったのであるし、今でもそうなのである。」(溝口)
 
▼溝口の竹内批判の必然として、溝口において初めて言われ始めたのが、本の題名となっている、方法としての中国、という言説です。それは溝口氏によって初めていわれた言説ですが、あたかもそれが中国独自の近代として清の時代の16・17世紀あるいは明の時代から反復されてきた中国原理であるといわれます。この方法としての中国は世界の多元性を読み解く鍵だ、と説明されます
 
「中国の近代はほかならぬそれ自身の前近代をあらかじめ母胎としており、したがってそれは中国の前近代の歴史的独自性を自らの内に継承するものである。反専制の共和革命という、その日本には見られなかった「旧社会-政治体制の根本的な変革」も、乱暴な言い方をあえてすれば、大同における16、17世紀以来の歴史的課題の、国民的または人民的継承であり、だからその様相も中国的に独自たらざるをえない。もともと中国はヨーロッパ的近代への趣向をはなからもたなかったのであり、それは「欠如」や「虚無空白」というよりは、中国的近代のやむを得ざる充実であり、その充実の継承の故に彼らはまたその前近代の母斑の制約を受けざるを得ない。そしてついでにいえば、その制約との葛藤の現れの一つが例えば文化大革命の「十年の動乱」でもあろうというのである。」(溝口)

「中国を方法とするということは、世界を目的とするということである。
思えば、これまでのー中国なき中国学はもはや論外としてー 中国「目的」的な中国学は、世界を方法として見ようというものであった。それは中国を世界に向けて復権させようというその意図から否応なく出ることであった。世界に向けて復権するために、世界を目指し、世界を基準として観念された「世界」、既定の方法としての「世界」でしかなかった。世界が中国にとって方法であったのは、世界がヨーロッパでしかなかったということで、逆にいえば、だから世界は中国にとって方法たりえた。
中国を方法とする世界とは、中国を構成要素の一つとする、いいかえればヨーロッパをもその構成要素の一つとした多元的な世界である。」(溝口)

世界の多元化というのが実在感をもって人々の間に承認されるようになったのは、中ソ対立や米中の和解を契機にして東西の二元構造が崩れだしてからであろうか。あるいはアメリカのヴェトナム撤退にみられた軍事力の衰落や、日本の工業力伸長にみられる経済の時代への趣向によることであろうか。いや、人によってはいっそ大戦後のアジア-アフリカ諸国の独立までさかのぼって言うかもしれないそれであるが、わたくしたち中国研究者、少なくともわたしにとっての多元化は、文化大革命以来の、 中国をつきはなして見るようになってからのことである。
それには、中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもう一つの例えば中国原理といったものを発見しようとしてきた、それまでの研究上の蓄積もある。」
(溝口)
 
 ▼ここからは、溝口「方法としての中国」 の<後>になにが語られることのなったのかを、溝口批判を行う子安宣邦氏の言説に沿ってかんがえてみたいとおもいます。
 
 溝口雄三が「方法としての中国」のタイトルをもった書を公刊したのは1989年六月である。89年の六月四日といえば天安門事件によって世界が記憶する日である。その前年88年の秋に、私はやがて起きる事件を予感しながら北京にいた。私はそこで日本思想史の講義の傍ら。「「事件」としての徂徠学」を一部の章を書いていた。私はこのい書によ思想史の方法的転換を遂げていった。溝口も「10年の動乱」という文革後の改革開放の中国、すなわち政治主義から経済主義へと国家の主導原理を大きく転させた中国を前にして、中国研究の戦後的視点の決算の意味をこめて「方法としての中国」を書いた。竹内の「方法としてのアジア」を十分に意識して溝口は「方法としての中国」を行ったのである。だが1989年に溝口がいう「方法」とは、1960年に竹内がいった「方法」であったのか。」(子安宣邦「帝国か民主か」2015)
 
▼子安氏は「日本人は中国をどう語ってきたか」(2012)で、メビウスの輪のように、再び竹内の<方法としてのアジア>から語りはじめていることはそれなりの理由があります。方法としての中国から、ふたたび、方法としてのアジア、に帰るといっても、それは、アジアの市民が自立するための方法としての他者、という問題提起ではないでしょうか。
 
「溝口の著書のタイトルにもなっている「方法としての中国」という文章は、1989年に書かれたものである。「方法としての中国」とは明らかに竹内の「方法としてのアジア」を意識していわれたものだと思われる。(・・・) 竹内はここで「方法」という概念を「実体」に対して使っている。東洋が西洋を巻き返す形で近代化を実現していくとkきに、何か対抗的な価値をなす「実体」がこちらにあるわけではない、だが「方法」としてはりうるのではないかといっているのである。私はそれを「アジアという抵抗線を引くこと」と解したが、竹内は西洋に何らか<東洋的実体>を対抗的に立てることなくして、<ヨーロッパ的近代>を巻き返すこと、あるいは乗り越こえることのできる何かを「方法」としていっているのである。この「方法としてのアジア」という竹内の提言には、世界史的<近代>とは<ヨーッパ的近代」の勝利としてあるという歴史的認識が前提にされている。その世界史的<近代>の、すなわち20世紀における東洋によるその<近代>の実現が問われているのである。竹内が「方法として」に、「主体形成の過程として」と加筆したように、東洋的主体の形成によって実現される新たな<近代>に彼は希望を託そうとしているのである。恐らくそれは竹内が毛沢東中国の「新民主主義革命」にかけた希望と別のものではないだろう。
では溝口はどのように「方法としての中国」をいうのか。これから引く溝口の「方法としての中国」という言説を見れば明らかなように、これは竹内の「方法としてのアジア」とがすれちがった、まったく異質な言説である。私はそれゆえ溝口は竹内の「方法としてのアジア」を読んでいないのではないかと疑うのである。」(子安「日本人は中国をどう語ってきたか」2012)
 
「日本人はどう中国を論じたか」という問いとは、究極的には、「われわれはどう他者を語ってきたか」、「われわれは依拠すべき他者との関係をどのようにつくっていくのか」という開かれた問題提起として与えられてくるのです。溝口氏の中国原理という原理的構成がいかに対象を対象の内部から対象に即してみる<語り>に絡みとられた言説として自ら完成していくのかという知の歴史から、精神の平等をいう他者が排除されることにはならないだろうか、です。
 
 「溝口は中国を中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもうひとつの例えば中国原理といったものを発見しよう」としてきた中国研究の蓄積をいっていた。だが「中国を中国の内部から中国に即して見」ることが、はたして何を見ることなのか、それは何かを見ることであるのかを彼は疑うことをしていない。また「中国原理」なるものは発見されるものなのか、むしろそれは発見者によって創りだされるものではないのか、という疑いを投げかけられるものであることを彼は考えてみることさえしない。これは驚くべきことだ。考えてみれば、戦後のわれわれの歴史認識・歴史研究は「日本を日本の内部から日本に即して見る」といった日本的同一性(日本原理)をめぐる国体論的な歴史認識・歴史言説との戦いから始まったのではなかったか。私は<中華文明圏>概念の再登場に衝撃を受けたが、同時に<中国的独自性>をめぐる溝口の歴史認識論的言説に唖然とた。」(子安 同上より)
 
▼汪輝「思想空間としての現代中国」(2006)、柄谷行人「帝国の構造」(2014)において溝口氏の言説からの大きな影響を読み取ることができますが、これらに対する批判を展開してきた子安氏は、まったく新しい視点(大正の読み直し)から、アジアの民主主義の意味を問うことになりました。ここから、江戸思想の、近代を相対化する言説としてだけでなく、精神の平等をもとめる言説としてとらえなおされるという読みが現在進行形でおこなわれています。
 
 
「「人間類型としては、私は区別を認めないのです。人間全部同じであるという前提に立ちたいのです。皮膚の色が違うとか、顔が違うとかはありますけれども、人間の内容は九通であり、歴史性においても人間は等質であるというふうに考えたい。そうすると近代社会というものは、世界に共通にあり、それが等質の人間類型を生み出すことを」」認めざるを得ない。同時に、文化価値も等質である。ただ文化価値は、宙に浮いているのではなくて、人間の中に浸透することによって現実性をもちえる。ところが自由とか平等とかいう文化価値が、西欧から浸透する過程で、タゴールが言うように武力を伴ってーマルキシズムか言うならば帝国主義ですが、そういう植民地侵略によって支えられた。そのため価値自体が弱くなっている、ということに問題があると思う。たとえば平等といっても、ヨーロッパの中では平等かもしれないが、アジアとかアフリカの植民地搾取を認めた上での平等であるならば、全人類的に貫徹しない。では、それをどう貫徹するかという時に、ヨーロッパの力ではなんともし難い限界がある、ということを感じているのがアジアだと思う。東洋の詩人は直観的に考えている。タゴールにしろ魯迅にしろ。それを全人類的に貫徹するものこそ自分たちであると考えている。西洋が東洋に侵略する、それに対する抵抗がおこる、という関係で、世界が均質化すると考えるのが、いま流行のトインビーなんかの考えですが、これにもやっぱり西洋的な限界がある。現代のアジア人が考えていることはそうなくて、西欧的な優れた文化価値をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値上の巻き返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。それはなにかというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」(竹内好、1961)」
「わたくしたち戦中-  戦後育ちの中国研究者のほとんどの研究起点に、中国への批判的視点というものはなかった。むしろ中国に批判的かつ蔑視的なであり、そのためおのずと中国侵略に加担することにもなった戦前ー戦中の、例えば津田左右吉氏らの近代主義的中国観を、批判もしくは排除するところこそが起点であった。
その場合その有力なよりどころの一つが、例えば竹内好氏の『魯迅』や「中国の近代と日本の近代」にみられる中国観であったろう。それは日本のいわゆる脱亜的な近代主義を自己批判し、その反面それの対極におしやられていた中国に、かえってあるべきアジアの未来を憧憬したものであり、極端にいうならばわたくしたちの中国研究の起点には基本的にこの憧憬が、まずあった。この憧憬なるものは、さまざまの日本内的自己意識、すなわち日本の近代百年にかかわるさまざまの反あるいは非日本意識の対極に、いわば反自己意識の投影像として自己内に結ばれたそれに向けられたもので、だからそれはあらかじめ主観的なものであった。憧憬は客観的な中国に対してではなく、主観的に自己内に結像された「わが内なる中国」に向けられたものであった。だからその「中国」は徹底徹尾、日本的近代の反措定たりえたし、だから憧憬すべくして憧憬されえた。(...).  「中国の近代」との関係におけるそのような自己否定的な憧憬構造が、わたくしたちの反脱亜的-反近代主義的な、またはアジア主義的な主体を、主観的な、したがって脆弱なものにしていたこともまた歪めない。わたくしたちは中国の近代を歴史的に客観化しえておらず、そしてそれは日本の近代を歴史的に客観化しえていなかったことと裏腹であった。その傾向に、よりどころとされたのが竹内氏の「中国の近代と日本の近代」なのである。

事実はといえば、もともと中国の近代はヨーロッパを超えてもいなければ、取り残されてもたちおくれてもいない。それはヨーロッパとも日本とも異なる歴史的に独自の道を、最初からたどったのであるし、今でもそうなのである。

中国の近代はほかならぬそれ自身の前近代をあらかじめ母胎としており、したがってそれは中国の前近代の歴史的独自性を自らの内に継承するものである。反専制の共和革命という、その日本には見られなかった「旧社会-政治体制の根本的な変革」も、乱暴な言い方をあえてすれば、
大同における16、17世紀以来の歴史的課題の、国民的または人民的継承であり、だからその様相も中国的に独自たらざるをえない。もともと中国はヨーロッパ的近代への趣向をはなからもたなかったのであり、それは「欠如」や「虚無空白」というよりは、中国的近代のやむを得ざる充実であり、その充実の継承の故に彼らはまたその前近代の母斑の制約を受けざるを得ない。そしてついでにいえば、その制約との葛藤の現れの一つが例えば文化大革命の「十年の動乱」でもあろうというのである。

中国を方法とするということは、世界を目的とするということである。
思えば、これまでのー中国なき中国学はもはや論外としてー 中国「目的」的な中国学は、世界を方法として見ようというものであった。それは中国を世界に向けて復権させようというその意図から否応なく出ることであった。世界に向けて復権するために、世界を目指し、世界を基準として観念された「世界」、既定の方法としての「世界」でしかなかった。世界が中国にとって方法であったのは、世界がヨーロッパでしかなかったということで、逆にいえば、だから世界は中国にとって方法たりえた。
中国を方法とする世界とは、中国を構成要素の一つとする、いいかえればヨーロッパをもその構成要素の一つとした多元的な世界である。

世界の多元化というのが実在感をもって人々の間に承認されるようになったのは、中ソ対立や米中の和解を契機にして東西の二元構造が崩れだしてからであろうか。あるいはアメリカのヴェトナム撤退にみられた軍事力の衰落や、日本の工業力伸長にみられる経済の時代への趣向によることであろうか。いや、人によってはいっそ大戦後のアジア-アフリカ諸国の独立までさかのぼって言うかもしれないそれであるが、わたくしたち中国研究者、少なくともわたしにとっての多元化は、文化大革命以来の、 中国をつきはなして見るようになってからのことである。
それには、中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもう一つの例えば中国原理といったものを発見しようとしてきた、それまでの研究上の蓄積もある。」
「「溝口雄三が「方法としての中国」のタイトルをもった書を公刊したのは1989年六月である。89年の六月四日といえば天安門事件によって世界が記憶する日である。その前年88年の秋に、私はやがて起きる事件を予感しながら北京にいた。私はそこで日本思想史の講義の傍ら。「「事件」としての徂徠学」を一部の章を書いていた。私はこのい書によ思想史の方法的転換を遂げていった。溝口も「10年の動乱」という文革後の改革開放の中国、すなわち政治主義から経済主義へと国家の主導原理を大きく転させた中国を前にして、中国研究の戦後的視点の決算の意味をこめて「方法としての中国」を書いた。竹内の「方法としてのアジア」を十分に意識して溝口は「方法としての中国」を行ったのである。だが1989年に溝口がいう「方法」とは、1960年に竹内がいった「方法」であったのか。」(子安宣邦「帝国か民主か」2015)

 

「溝口の著書のタイトルにもなっている「方法としての中国」という文章は、1989年に書かれたものである。「方法としての中国」とは明らかに竹内の「方法としてのアジア」を意識していわれたものだと思われる。(・・・) 竹内はここで「方法」という概念を「実体」に対して使っている。東洋が西洋を巻き返す形で近代化を実現していくとkきに、何か対抗的な価値をなす「実体」がこちらにあるわけではない、だが「方法」としてはりうるのではないかといっているのである。私はそれを「アジアという抵抗線を引くこと」と解したが、竹内は西洋に何らか<東洋的実体>を対抗的に立てることなくして、<ヨーロッパ的近代>を巻き返すこと、あるいは乗り越こえることのできる何かを「方法」としていっているのである。この「方法としてのアジア」という竹内の提言には、世界史的<近代>とは<ヨーッパ的近代」の勝利としてあるという歴史的認識が前提にされている。その世界史的<近代>の、すなわち20世紀における東洋によるその<近代>の実現が問われているのである。竹内が「方法として」に、「主体形成の過程として」と加筆したように、東洋的主体の形成によって実現される新たな<近代>に彼は希望を託そうとしているのである。恐らくそれは竹内が毛沢東中国の「新民主主義革命」にかけた希望と別のものではないだろう。

では溝口はどのように「方法としての中国」をいうのか。これから引く溝口の「方法としての中国」という言説を見れば明らかなように、これは竹内の「方法としてのアジア」とがすれちがった、まったく異質な言説である。私はそれゆえ溝口は竹内の「方法としてのアジア」を読んでいないのではないかと疑うのである。」(子安宣邦「日本人は中国をどう語ってきたか」2012)

 

「溝口は中国を中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもうひとつの例えば中国原理といったものを発見しよう」としてきた中国研究の蓄積をいっていた。だが「中国を中国の内部から中国に即して見」ることが、はたして何を見ることなのか、それは何かを見ることであるのかを彼は疑うことをしていない。また「中国原理」なるものは発見されるものなのか、むしろそれは発見者によって創りだされるものではないのか、という疑いを投げかけられるものであることを彼は考えてみることさえしない。これは驚くべきことだ。考えてみれば、戦後のわれわれの歴史認識・歴史研究は「日本を日本の内部から日本に即して見る」といった日本的同一性(日本原理)をめぐる国体論的な歴史認識・歴史言説との戦いから始まったのではなかったか。私は<中華文明圏>概念の再登場に衝撃を受けたが、同時に<中国的独自性>をめぐる溝口の歴史認識論的言説に唖然とた。」(子安 同上より)」