岩井克人「不均衡動学」(1989)を読む

岩井克人「不均衡動学」(1989)を読む▼マルクス資本論」をシェークスピアを通して分析した、経済学者・岩井克人氏の「ベニスの商人の「資本論」」に到底及びませんが、最後の審判の日の「不均衡動学」というような切り口で、演劇というものを経済学批判の視点から読み解くことができないかというのがここでの私の目的。▼岩井「不均衡動学の理論」をホルヴァートを通して分析したいと思います。▼この「不均衡動学の理論」は、経済学の「学」に向けられた言説批判というか、「これは、まさに合理性というものの逆説にほかならない」という口調で「逆説」という言葉が氾濫しています。▼われわれに教えるその逆説は、効率性と安定性の二律背反に関わるものです。そして「市場経済とは、まさにその外部によってその内在的な不安定性から救われているのであるという逆説がここに存在している」と言われるのですが、この二律背反こそがネオリベ経済学に対するアカデミックな反論の視点をなします。▼つまり簡単にいえば、(マクロ経済学においては)効率がよくなればなるほど不安定性が増大するという関係がみられるということ...ですね。▼さて演劇ですが、ホルヴァートが「愚かしさのようなものほど、永遠性を感じさせるものはない」というとき、この「愚かしさ」とはなにかとかんがえるとき、それは、「外部性」の概念に関係しているのではないかとおもうのです。▼なぜ「最後の審判の日」アンナはトーマスフーデツをあれほどかばったのかという問題があります。これなんかは、外部性としての愚かさという切り口からとらえることができないだろうかと思うのですね。▼アンナはなんらかの意味での人間的な硬直性をもっていたように感じました。後期近代21世紀において極まる、効率の果てしない追求と怖るべき安定性の拡大、差別されていく精神の空洞化。これはすでに1930年代にさかのぼりますが、われわれの現代に必然的に直進していく体制にたいして、その外部に立とうとするアンナ。列車衝突事故に帰結しましたので、愚かにみえますが、それは事後的にいえることで、キスは、アベミックスのような市場至上主義の経済合理性の立場からみれば「非論理的」であるが、社会的な存在としての共同体の立場からみれば「一見したほど非論理的ではない」と私は考えます。▼時間を均質化していく機械仕掛けに進行する合理化と危機的な不均衡に巻き込まれていく人々。トーマス・フーデツに、アンナは人間性の意味を回復しようとしていわば経験知としてのキスというごとき言葉の光と闇を与えました。ホルヴァートは、近代にたいしてなんとか巻き返していこうとしたプロセスがあったことを、ほかならない、二人共同体を通して舞台で表現したのではなかっただろうか。

 
本多 敬さんの写真